これは、偏愛。「第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞優秀作」で、あらすじの壮絶さとネタについては何となーく聞いていたのですが、そうしたミステリ的な部分よりも、ホラーの趣向をミステリへと昇華させる巧みさと、事件の構図の「鬼畜」性に強く惹かれました。
物語は、妻と娘がいる幸せ気分の語り手が、学生時代のアルバムを見たのをきっかけに過去と対峙することになり、……という話。人を陥れ、殺すことも平気のヘイサでこなしてしまうDVな義父や、この男に陥れられた母親、さらには引っ越した先での壮絶な苛めと裏切りなど、語り手が明らかにしていく子供時代だけでもお腹イッパイなのですが、これに加えて一卵性双生児の「キョウダイ」がおぞましい病に罹って寝たきりの生活を送っているというからもう、アンハッピーエンドは約束されたようなもの。
作者がジャケ裏に曰く「ミステリーとホラーの融合」を唱えている限り、一卵性双生児と来ればあのネタでしょ、と本格ミステリー読みが勘ぐってしまうのは当然なわけですが、ここはそのネタが明かされたからといって「ほら、やっぱり」と作者に勝利宣言するのではなく、それがいつ、どこで行われ、またどのような効果をもたらしたのか、というディテールに目を配った読みが吉。
子供時代にも、DV義父の策謀によって、ある犯罪計画を遂行するために件のコレが行われていたりというふうに、作者自身も本格ミステリでは古典的ともいえるアレが本作に使われていることを隠すことはせず、そこへ過去の逸話と、語りによる現在とを重ねることによって、その仕掛けの外側にささやかな驚きを配置し、それが明かされるのをきっかけにして、「鬼畜」的な事件の全体構図を繙いていくという結構が秀逸です。
また、「ホラーとミステリーの融合」というと、ロジックでは「割れきれない」何かを余韻として残した風格かとイメージしてしまうわけですが、本作の優れているところは、日野日出志御大の『蔵六の奇病』を彷彿とさせる凄まじい病に犯されたキョウダイをホラーの筆致で描きつつ、そうした描写と設定が本格ミステリー的な仕掛けとへ絶妙に転化されているところでしょう。
(以下文字反転)体が膿み溶けていく原因不明の病の様態を、ホラー的なおぞましい筆致で描きだしてみせることで、読者はまず確実にこの「キョウダイ」の死を確信してしまうわけですが、それこそが作者の巧みな戦略で、これによって一卵性双生児といえば入り替わりのトリック、という読者の先入観を弱める効果を狙った仕掛けを見ていくと、作者の素養はホラーというよりは、ミステリ寄りなのかなも、という気がします。
そしてこうしたホラー的な要素を本格ミステリーの仕掛けへと奉仕させる作者の技倆とともに注目したいのが、本作の真相に描かれた事件の構図の「鬼畜」性で、このあたりは同じ「第3回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」の『檻の中の少女』にも通じ、――というか、主人公の奈落と虚無的なエンディングという点では、個人的にはこちらの方がかなりキました。
『鬼畜の家』に『檻の中の少女』に本作と、ここまで「鬼畜」づいている偶然というのも薄気味悪く、個人的には本作に凝らされたホラー的描写よりもこちらの偶然の方が遙かに怖かったりして、……というのは半分冗談ながらも、この偶然はまた現代日本のある断面を暗喩しているのやもしれず、円堂氏あたりがこのあたりを考察を行ってくれないかナー、と淡い期待を抱いている次第。
ミステリーとホラーの融合というよりは、ホラーの要素を戦略的にミステリーの仕掛けへと昇華させた本格の逸品という風格で、『鬼畜の家』、『檻の中の少女』とは作風が大きく異なるものの、この二作の持つ暗い輝きに魅了されたミステリーファンであれば、まず文句なしに愉しめるのではないでしょうか。オススメ、でしょう。