大傑作。正直、第四話の「永遠的少年」を読了後、あまりの素晴らしさにどうにもコーフンがおさまらず、しばらく部屋の中をグルグルしてたくらい(爆)。もっともあの傑作中編「千年後的安魂曲」の作者ゆえ、本作もまァ、それなりに期待はしていいよネ、と軽い気持ちで読み始めたものの、トンデモない作品で大満足の一冊でした。
物語は、連作短編の形式を採っています。香港である装置をある場所に仕掛けて毒殺をはかる連続殺人事件が発生、この事件を追う香港警察の女性の奮闘を描く「千禧前夜」。九月十一日――テロによって世界貿易センタービルが崩壊したその日に殺害された夫の事件解明を、被害者夫人より依頼された探偵に襲いかかる謀略と罠「器之罪」。
イギリスを舞台に、テロ爆破事件の背後で隠微に進行するもうひとつの事件の真相とは「薛丁格之焰」。獄中のテロリストに送られてきた一通の手紙に記されていたテロ予告――それを阻止するべく日本に飛んだ探偵事務所のボスを追うふたりの運命はいかに「永遠的少年」。香港民主化デモが吹き荒れる2020年の香港を舞台に、いままでの登場人物たちの因業と未来を描き出す「約定的地方」の全五編。
舞台はそれぞれ、1999年の香港から2001年のアメリカ、さらには2007年のイギリス、日本、そして2020年の香港と移っていくのですが、主人公も各話で異なっているところに注目でしょうか。1999年の香港を描いた「千禧前夜」のヒロインは、この話で描かれた事件の解決をきっかけに新天地へと旅立ち、この後の話にも大きく絡んでくるのですが、どのような形で、――という点についてはネタバレを避けるため、ここでは触れずにおきます。
「千禧前夜」は、香港で発生した連続殺人事件を描いた話ですが、この殺人の実行方法がふるっている。パソコンの中にある装置を仕掛けて、そこからガスを噴射して中毒死させるというものなのですが、このパソコンの入手経路を辿っていけば、犯人はたやすく捕まえることができるだろう、と捜査を進めていくも、この装置が仕掛けられたのはかなり昔であることが判明する。
この事実によって、被害者同士を繋ぐミッシングリンクを宙づりとして、連続殺人事件をスケールの大きなテロルへと転換せしめた趣向が面白い。実際、犯人はテロルの思想に共鳴していて、フーダニットの点から言えばこの人物の名前は、物語の冒頭で早々に明かされているのですが、事件の解明によってこの人物の正体が明かされるところはチと吃驚。奇妙な殺害方法は「あるもの」の陥穽を突いたもので、おそらく香港人しか知らない(というか、フツーの香港人でもこの「あるもの」は知らないんじゃないノ?)ものながら、それをテロルの犯行方法と刑罰を回避する手法に”悪用”した発想が恐ろしい。この話によって捜査する側の業が明示され、ヒロインがこの罪を背負って生き続けていくこれからの物語へと繋げていく構成の旨さも言うことなし。
さて、本作のテーマを挙げるとすれば、「テロル」「恩讐」「赦し」「償い」あたりに落ち着くかと思うのですが、それぞれの物語で描かれる事件に「テロル」が大きく関連してい、なおかつ登場人物が事件の真相解明によって大きな「業」を背負い、その「償い」をするため前を向いて生きていく生き様を描かれていきます。
続く「器之罪」は、911テロの発生したニューヨークの、現場である世界貿易センタービルにほど近い建物の一室で、この日に殺された夫の事件を調べてほしい――と、中年女性から依頼を受けた探偵が語り手のお話。本格ミステリらしからぬ展開で、ハードボイルドの骨法を会得した作者の真骨頂とでもいうべき語り口によって、主人公の過去と因縁が明かされていくのですが、このお話、頭デッカチで軟弱な本格ミステリ読みが裸足で逃げ出すような肉体描写が際だっているところが、個人的にはタマらない。
この物語の主人公は、「器之罪」のみならず後半にも登場するのですが、いずれのシーンにおいても手に汗握る格闘シーンが添えられてい、ムエタイはもとより、クラウ・マガ、ラウェイなんて言葉が飛び出してくるあたり、作者はけっこう格闘技好きなのかナ、と思った次第。本作の続編があるとすれば、次回は是非、シラットやシステマあたりも登場させてもらいたいところであります。
そんなハードボイルド・格闘小説的な風格を前面に押し出しつつも、”被害者”と”犯人“の構図をひっくり返して、タイトルにもある“罪”の実相を明かし、この前の「千禧前夜」と登場人物を繋げて連作短編とした構成が秀逸です。また「千禧前夜」でヒロインが背負った「罪」は、この「器之罪」でも変奏され、この後に続いていく趣向も本作の連作短編としての見所でしょうか。
作者じしんはトリック派というよりは、プロットと構図の反転で魅せてくれる技巧派という印象なのですが、こうした作者の才能がよりストレートに表れているのが続く「薛丁格之焰」で、舞台をイギリスに移し、テロの恐怖に震えるイギリス・ロンドンで怪しい車輌と人物を偶然目撃したヒロイン(ネタバレ回避のため、敢えてこの人物の背景については伏せておきます)が旧知の警官に連絡をとるも、テロかと思っていたものが誘拐事件へと転じ、――という話。
怪しい車輌から降りた人物は車のキーを溝に捨てて立ち去っているところから、車の中の身代金を取り出すことは不可能という密室の謎と、実際に発生した爆破事件の仕掛けとを連関させて、その裏で隠微に進行していた事象とその思惑が解明されていく展開は、収録作の中でもっとも本格ミステリらしいと言えるかもしれません。事件が解決したエピローグでさらなるどんでん返しが待ち受けている構成と、本作の主要テーマとなる「テロル」を支える復讐の連鎖が犯人の口から語られることで、物語の舞台を変えながらも911と地続きのリアルを読者の前に明示してみせる手法が秀逸です。
続く「永遠的少年」は日本が舞台で、――敢えて物語の年代は伏せておきますが、個人的にはこれが一番のお気に入り。獄中のテロ犯……この人物の名前をここでバラしていいか、悩んでしまうのですが、日本でも知ってる人はかなりいるであろうこの人。ちなみに「千禧前夜」の犯人もこの人物に影響を受けてテロを行っているのですが、この人物の思想が本作の重要なポイントにもなっています。
あらすじはというと、獄中のテロ犯から次なるテロはどうやら日本で行われるらしい、ということを知った探偵事務所のボスが音信不通となってしまったことをきっかけに、事務所の二人は、失踪した彼女を探し出すべく日本に飛ぶ。そして、予告メッセージをテロ犯に中継していた人物を突き止め、テロを阻止しようとするのだが――という話。
とはいえ、この大きな流れに、しっかりと現代本格ミステリのアレを配して、物語の視点人物と読者を誤導する技法が「器之罪」の変奏として示されているところも心憎い。そしてある登場人物の隠された出自と語りから、「薛丁格之焰」における「復讐」が変奏され、さらには日本における二つの時代の歴史が交錯する。またこの二つのうちの一つの過去を探偵の視点から描き出すことで、歴史的な罪を背負った次世代の「赦し」と「償い」が大きくクローズアップされていく構成によって、スケールの大きな物語に昇華させた作者の技倆が素晴らしい。
さらには本格ミステリの技法としては、ついにテロが実行される時間を0として、“-40:33:21”というふうにマイナスの時間を明示して、刻一刻とその時へと近づいていく緊迫感とともに、もう一つの時間軸ともう一人の視点を交錯させた技法に注目でしょうか。
個人的にはこの「永遠的少年」が本作のクライマックスと感じているのですが、続く「約定的地方」では現代の香港を舞台として、主要登場人物たちの背景を繋いでみせることで、本作に通底する「テロル」「罪」「赦し」の総決算が大展開されます。
この物語だけは、香港民主化デモに関する写実的描写が際だってい、ちょっと異色な印象があるものの、プロローグでチラっと示されたあるシーンに登場する男女の正体をフックとして、「罪」と「赦し」とともに、「正義」とはという重い問題に対する答えを模索する展開に、登場人物たちの生き様を重ねた趣向がいい。
暴力装置と化した香港警察と、コロナ禍において変容した香港の「いま」を背景に、制裁活動を続ける人物のフーダニットと、この人物の背景が二転三転する真相によって明らかにされていく本格ミステリ的手法も秀逸です。また、この前に「永遠的少年」という物語があったからこそ、「永遠的少年」で語られたある人物が抱える「過去」の重さと、この謎めいた人物の抱える「過去」が見事に重なり、その答えとなる「未来」をより明るいものにしようと決意する主要登場人物たちの姿は感動的(本作にずっと登場したヒロインの決意する姿に、自分が『虚無への供物』のラストシーンを思い浮かべてしまったのはナイショ)。香港の今に目を転じれば、もちろんそんな生やさしいものではないことは間違いないものの、この物語は美しき大団円によって幕を閉じます。
……なんだかあまりにコーフンしてしまって、もの凄く長くなってしまったのですが、もうひとつだけ。台湾で刊行された本作には、すでにもの凄い数の推薦文が寄せられてい、『おはしさま』に収録された「鰐の夢」の作者である瀟湘神氏や、『おはしさま』に長い論考・解説を寄せている路那氏などは、本作を評する際に陳浩基の傑作『13.67』の名前を挙げています。自分もまた、本作は『13.67.』に比肩する、香港の今を代表するであろう歴史的傑作と確信する一方、本作が『13.67.』とはやや異なる作品だということに留意しておく必要があります。
『13.67.』“のような”作風を期待すると、多くの“ガチな”本格ミステリ読者はやや失望するのではないか、というのが自分の懸念で、本作は、ハードボイルドの要素が際立つ「器之罪」や、サスペンスな「永遠的少年」など、『13.67.』に比較すると、よりエンタメに寄せていて、“ガチな”本格ミステリ読みよりは、もっと幅広い読者層にアピールできる一冊となっています。
この物語は、多くの日本人(“ガチな”本格ミステリ読みではなく)が愉しめると思うのですが、その一方で、政治的にナイーヴな日本人が、本作で作者が書きたかったことを真っ正面から受け止めることができるか、というとちょっと心許ないような……なんて心配をするまでもなく、本作の邦訳など夢のまた夢、でしょう。とはいえこれだけの傑作ですから、おそらく『13.67.』を世界的なヒット作にした仕掛け人のG.T.氏(台湾のあの人ね)あたりがすでに動き始めているかもしれず……だとすれば、欧米でのヒットと評価を受けてようやく日本でも出版が検討される、――という流れはあるかもしれません。ともあれ、いま読んでおいて決して損はない、そして中国語が読める人には是非手にとってもらいたい歴史的傑作といえるのではないでしょうか。超オススメ。