苦行本。とにかく読むのがページをめくるのが辛く、読み通すのに大変な忍耐を必要としたことだけをまず告白しておかなければなりません。もっともそうした「つまらなく」て、「芯がな」い物語にもしっかりとそうである理由があり、それが最後に明かされる真相にも大きく絡んでいることは十二分に理解できるものの、……それでもやはりこの物語はちょっとなァ、と感じてしまいました。このあたりの感想については後述します。
物語は、映画制作のロケハンのため、「絶海の孤島」を訪れた六人が次々と死んでいく。彼らがおさめていた映像から事件の真相と背景を明らかにしてもらいたいという依頼を、探偵事務所が受けるのだが、――という話。前半はただひたすら延々とロケハンの映像シーンが流れているばかりで、これがまた「とにかく芯のない映像」で「どこに注目していいか判らない」「編集していない映像って、プロが撮影してもこんななんだ」、「なんの演出もなく撮影したやつは退屈ってレベルじゃない。見ていると頭がぼーっとして」くる、「映像があんまりつまらなくて、見ているうちに見なくてもよくなる理由を探して」しまうくらいだと、その映像に眼を通した登場人物の一人が嘆いているくらいの単調さでありまして、そうした映像の平板さを”忠実に”文章に起こしたものが”小説”として読者の前に開陳されている、――そのことに作者の周到な企みがあり、映像がつくりものなのか、それとも島で起こった出来事をそのまま撮影したものなのか、という疑問点を飛び越えて、後半は依頼人の真の目的などが強力な謎としてスリリングに立ちのぼってくるところは期待通り。
しかしそこに至るまでの平坦な道のりがあまりに長すぎるため、そもそも最後に明かされるこの”小説”そのものに仕掛けられた秘めやかな巧みに辿り着くまで、この「退屈ってレベルじゃない」展開に付き合う価値があるのかどうか、……そこに納得できるかどうかで本作の評価は大きく分かれるような気がします。
で、個人的にはどうかというと、ちょっと……微妙です。確かに本作の島の名前や依頼人の暗喩など、新本格の名作を多分に意識した趣向や、映像と小説という表現形式の相違を駆使したメタレベルでの騙りの技法など、作者の意図するところには大いに首肯できるものの、それでも何かこう、本を閉じたあとも納得できないというか、落ち着かないというか、……この小説の存在そのものについて色々と考えてしまいました。
「退屈」で「つまらない」こと”そのもの”が作品全体の仕掛けに大きく関わっていることは十分に理解しつつも、読者の時間を剥奪してまでそうした趣向の小説を書く意味が、今、あるのかどうか。作家ではない自分にその答えを見つけることはできないものの、このあたりは創作の視点から色々と考えてみる価値があるんじゃないかナ、と感じるのは自分だけでしょうか。
これがまだ本格ミステリ小説の刊行も少なく、とにかく本屋に平積みになっていた講談社ノベルズの新刊は片っ端からゲットして読みあさっていた三十年前ならいざ知らず、読者の娯楽は本格ミステリ小説のみならず、映像からゲームからネットのSNSそのほか諸々と多岐にわたる現在の(小説にとっては)危機的状況を鑑みれば、本作のような読むことが「退屈」で「つまらない」こと”そのもの”が作品全体の大きな仕掛けとなっているアイディアを思いつこうとも、今一度踏みとどまって再考する勇気も必要なのではないかナ……とか、こうした仕掛けを用いずとも「面白い」本格ミステリ小説は書けるわけだし、逆に、敢えてそうした他の技法を忌避してまで、「退屈」で「つまらない」ことを優先した仕掛けの小説を書く理由は何なのか、とか……、ともあれ、色々と考えさせる小説であることは事実です。
新本格生誕三十周年の”今”だからこそ読むべき、ともいえるし、逆に、新本格誕生から三十年も経ち、今や本格ミステリのライバルは他にもいる状況の中で、こんな悠長な小説を書いていてもいいのか、――この小説の存在そのものを”今”考えるためにも、やはり”今”読んでおくべきなのかなァ、という気もするとはいえ、とにかくコストパフォーマンス(時間を費やしただけの対価)はお世辞にもよろしくない一冊ゆえ、「とにかく暇つぶしに忙しい」御仁にこそ、是非とも本作を読了いただき、この小説の存在意義について色々と考えていただきたいと思います。というわけで、あくまで厳重取り扱い注意ということで。
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