数ヶ月前イッキに刊行された宇能鴻一郎本の一冊、――ながら作者ならではの倒錯世界の魅力はかなり薄目、でしょうか。実を言うとかなり前に紙本を中古でゲットしたものの、途中で読むのをやめてしまった本作、今回電子本で再刊されたのを機会に再び手に取ってみたものの、やはり作者は短編の方が愉しめるナ、と感じた次第です。
物語を強引にまとめると、――伯爵家の令嬢とも噂のある才色兼備なヒロインが、喫茶店でガリガリのキモ男のイチモツを無理矢理触らされたのをきっかけに淫らな女へと覚醒。結婚式当日に新郎をホッタラカシにして式場を抜け出し出奔してしまう。行き着いた静岡でレズ美女に促されるまま、白豚女の経営するセックス・クリニックとは名ばかりの風俗店で働かされた挙げ句、女の息子の一寸法師と結婚させられてしまう。一方、ヒロインの妹の家庭教師をしていた醜男は彼女に変態的な恋心を抱いてい、金に物を言わせてその行方を捜そうとするのだが――という話。
とにかく登場人物たち、――そのなかでも殊に男衆が強烈な個性を放っているのに注目で、ヒロインに無理矢理自分のイチモツを触らせたガリ男の貧乏自慢も強烈なら、妹の家庭教師を務める醜男のノートルダム(妹が命名)も相当にふるっていて、親の遺産を受け継いだボンボンながら、退屈凌ぎに日本全国を行脚して美食巡りを愉しむいっぽう、各地のルンペンたちと隠微なネットワークを築いている。ヒロインの視点と、このノートルダムがルンペン・ネットワークを駆使してヒロインを捜索する二つのパートが平行して語られていくのですが、ヒロインの冒険譚とはいえ、彼女は場当たり的な行動から思わぬ人との出会いを引き寄せて、ただそれに流されていくだけ。個人的には、金に物を言わせてその行方をひたすら追いかけるノートルダムの果敢な行動に惹かれました。
またこの男が筋金入りの脚フェチで、昨今のヤングにおける「ミニスカとニーハイによって構築される絶対領域こそが女脚の至高ッ!」なんて生っちょろいものとはひと味もふた味も違ってい、「じっさい、若い女の脚ほど魅力的なものが、またとあるだろうか」と嘯いたかと思えば、「女性自身と呼ぶべき女性の本質、魅力の本質は、むしろ脚であり、あるいはせいぜいふっくらしたヒップであり、女の性器は、さいごに、その魅力によってひきおこされたすべての社会的、生理的なエネルギーを吸収し、魅力の責任をとる器官にすぎない」と数ページにわたって滔々と語られる性器論は、本作の見所のひとつカモしれません。
このノートルダムのほか、セックス・クリニックとは名ばかりの風俗店を経営する女“医師”の息子が、乱歩の一寸法師か、はたまた『フェノミナ』のアレを彷彿とさせる容貌であるところも注目でしょうか。女“医師”の手にかかり、ヒロインはこの息子と強制結婚させられるのですが、その初夜にもヒロインの身体に指一本触れることなく、一晩中奇声を上げながらヒロインが拘束されたベッドの周りを飛び跳ねているだけ、――というのも薄気味悪い。この一寸法師が物語後半には意想外な暗躍・活躍を繰り広げるのですが、裸体革命の集団に匿われていたヒロインが最期には後景に退いて、彼女とある人物との平穏な暮らしを俯瞰して幕となる終わり方を絶望的なハッピーエンドととるか、あるいは作者の投げっぱなしジャーマンととらえるかは読者次第。個人的にはちょっと微妙なかなァ……と感じました。
物語の素材としてはなかなかイケているものの、キワモノ女王・戸川昌子の長編に比較すると、そこまで破天荒な展開ではないところが物足りない。『耽溺』に収録されていた「蜘蛛の愛撫」などが典型的ですが、作者の作品の場合、恋愛物語を基軸に変態を絡めても今ひとつノリが悪く感じられるのは自分だけでしょうか。
とはいえ、れいの文体を駆使した官能小説へといたる過渡期の作品として、また脚フェチと美食という作者ならではの魅力も感じられるゆえ、「楽」シリーズ(?)ほどの倒錯を求めない読者であれば、ヒロインの奇妙な冒険譚を堪能できるかもしれません。あくまで取り扱い注意、ということで。