京極夏彦・曲辰対談『巷説百妖話冥談』質問コーナー(祝!京極夏彦訪台 その3)

昨日に続いて、京極夏彦・曲辰対談『巷説百妖話冥談』の質問コーナーになります。前置きは抜きにして、一気にいきましょう。

読者「最初に告白してしまうと、私、百鬼夜行シリーズが大好きなんです。いったい最後はどうなるんだろって、早く結末を知りたいと思う一方で、このまま終わってほしくないという気持ちもあったりして、とにかくあのストーリーが大好きなんです。登場人物がとても魅力的なんですが、あれって、まずそうしたキャラクターが先にあって物語ができるものなんでしょうか。それとも物語が先にあって、ああいうキャラクターを思いつくんでしょうか」

京極「えー、ストーリーも、キャラクターも、小説という作品の中においては、たんなる部品です。小説は、ストーリーがなくても成り立ちます。キャラクターがいなくても成り立ちます。ただ、キャラクターやストーリーがあった方が、まあ、読みやすい。だから必要なだけですね。僕は究極的には字が並んでいるだけで、面白いっていうものが書ければいいなって思ってますが、それは難しいですね。ですからとりあえずストーリー的なものはあった方がよかろうということを考えるぐらいで、キャラクターもその作品のために作ります。ですから、別の作品に同じキャラクターが登場するような場合は、それはですね、一階建てたうちを壊して、廃材を利用するようなものですね。ですから、あ、このうちにこの柱はぴったりですねというかたちです。だからキャラクターを先に作ることはないです。ですからストーリーだけが出来ることもないです。先ほど、最初に言ったように、作品として一度に出来上がります。ただ使える部材が、あるぞと。こいつはちょっとがちゃがちゃしてるな。使ってやろうかな、榎木津を。そういうことです」
曲辰「じゃあ、それで関口はやられっぱなしだと?」(会場笑い)

読者「台湾には水木しげる先生もいないし、妖怪のような考え方もありません。台湾ではそのほとんどが鬼や幽霊の類いで、幽談と冥談はそうした鬼や心霊といったものに近いと思うんですが、先生は鬼や幽霊といったものについてはどんなふうに考えていますか? またそれを創作にどのように活かしているのでしょうか?」

京極「あの妖怪というのは先ほど言いましたように、日本独特の概念ですね。現在は。なので、それに当てはめて台湾の妖怪は、外国の、アメリカの妖怪とかいうことはありますけども、それはあくまでそれは日本基準で考えたときですね。その現地現地でそう呼ばれていないならそれは違うんです。ですから、台湾の方々がそう呼んでないならそれは妖怪じゃないですね。それはそれで全然構わないです。一方で、あの魂の問題。魂の問題というのはまたちょっと違うふうに考えないといけないわけです。私は、この世に不思議なことなどはないと考えていますから、いわゆる心霊現象、こちらで何ていうのかしら、判りませんが、そういうものに関して……霊現象ですか……ええ、ないと思うんです。もう完全にないでしょう。考えるまでもなく、ないです。

ただし、先祖を敬う気持ち、亡くなった人たちに対して死を悼む気持ち、あるいはこの土地に感謝する、この住んでいる町に感謝する気持ち――そういう気持ちというのは信仰になるのであれば、それは絶対に否定してはいけないと思うんですね。それをむしろ大事に思わなくてはいけれない。それこそがたとえば来世なり何なりであろうし、あるいは魂として考えられるものでありましょう。死んだ人の死後の世界は、生きている人の中にあるんです。ですから我々が生きているために死者のことを思う、考えることはとても大事なことだと。だからそのために方便として、魂、霊というものを用意しておくこと、これは必要不可欠なものなんです。だけど、それが悪さをするとかいう話になってくるとちょっと違うだろうと。何も乗っていないスクーターが走っていくとかね、そういうのは違うんじゃないですか、と僕は思いますけども」

読者「私は京極先生の小説がものすごく好きで、読んでいるうちに妖怪も好きになりました。お訊きしたいのは、小説の中には日本の民族とか妖怪とか出てくるわけですが、いま、先生の小説は日本だけではなく、いろいろな国でも刊行されていますよね。こういうところは外国人に伝えにくいかな、というところはありますか」(taipeimonochrome注:この方は日本語で質問してました。若干修正しましたが、内容についてはほぼそのままです)

京極
「僕が最初に小説を書いたとき、外国に翻訳は不可能だと言われました(会場笑い)。そして漢字が多いので、日本のひらがなの部分を取ってしまえば、中国で出せるんじゃないかと。ところが中国は簡体字なので、台湾の方が向いているんじゃないかと。かなり字が、というか本を開いた感じは似ているんですね。ただ、内容に関して言うと、本当に翻訳されているのかどうか、僕には判らないんです。怪とか、東南アジアの方で出ているやつなんかはまったく判りませんので、確認できないです。それはもう、翻訳してくれた方と、間に入ってくれたエージェントの方を信じるしかないんで。もしかしたら全然違うお話になっている可能性がありますね。でも、仕方がないです。

少なくとも、台湾の皆さんと今日お会いしてそれから、一昨日記者会見で色々な記者の方に質問されたりしたんですけれども、おおむね伝わっているんだなという感じを受けました。きちんと読んでくださいましてありがとうございます」(拍手)

読者「推理小説についてお聞きします。推理小説作品に対する考え方と概念についてと、どのような作品がいいのか、そして推理小説に対するフェアプレイというものについて、どんでん返しや探偵といったキャラクターについてお話いただけますか?」

京極「えーと、推理小説という言葉も面倒くさい言葉で、あのー、日本ではもう推理小説という言葉は使いません、ほとんど。ミステリーと言います。まあ、あの私の所属している団体は日本推理作家協会なんですが、それは一昔前の名前なんですね、それ以前は探偵小説という。探偵小説いうものは成立した段階で、まあ、探偵の日本における祖と言われているのが、江戸川乱歩という、禿げたオジサンです。このまあ、乱歩からして、ある種、いくつかのパターンに仕分けしました。本格探偵小説、それから本格ではないもの。まあ、大きく分けると二つになると。その本格探偵小説がそのまま、今では本格ミステリーというもので呼ばれています。本格ミステリーは謎解きを中心として考えられたというふうに、小説というふうにとらえられることが多いのですが、本格ミステリーを書いている人間達の間でもきちんとした定義がなされません。人それぞれで甲論乙駁、非常に論議が分かれるところであります。

ただ、どんな小説であっても、謎があって、謎が解かれるというスタイルといいうのはあるわけで、そういう意味でそこを際立たせたいのであれば、フェアな書き方というのが望ましいだろうというふうには考えます。本格ミステリー書き的にですね、フェアか、アンフェアかというのも非常にまあ、作品に対して批評の際に言われることなんですけど、僕はどちらかというとアンフェアではない方を心がけています。フェアであろうとしています。ただ、書き方ぶりは非常にフェアですが、そもそも妖怪なので、存在がアンフェアだろうということは、ちょっと、よく言われるかもしれません」