京極夏彦・曲辰対談『巷説百妖話冥談』(祝!京極夏彦訪台 その2)

京極夏彦氏の訪台が十月はじめで、もうだいぶ日にちが経ってしまったんですが、今日は、台湾大学文学院ホールで開催された京極氏とミステリ評論家である曲辰君との対談『巷説百妖話冥談』をテープ起こししたものをお送りします。結構なボリュームなのですが、質問コーナーだけを次回に回すとして、今回はイッキにいきます。録音をしてくれたシンディ嬢と、掲載を許可してくれた獨步文化のみやびさんに感謝。

京極夏彦(以下・京極)「皆さんこんにちは。記者会見ではこちらの言葉でご挨拶をしたんですが、発音が悪いなと自分でも思いましたので、無理はしません(笑)。今日はよろしくお願いします」

曲辰「台湾は初めてだということですが、台湾の印象はどうですか?」

京極「えーとですね。大変に食べ物が美味しいんで、到着しまして、よくいらっしゃいましたとごちそうされまして、たくさんいただいたんですが……ちょっと疲れましたね、ちょっと休みましょうというところも食べ物屋さんで、一日あけて朝ご飯をおいしくいただいて、じゃあちょっと移動しましょう、というとお昼ご飯で、ものすごくおいしいんですが、ちょっと食べ過ぎ……(会場笑い)ですね」

曲辰「食事に関して、何か印象的だったことは?」

京極夏彦「結構、その高級なお店でいただいたんですが、同時にものすごく庶民的なところでもごちそうしていただいて、どっちも美味しいですね。私と同行した日本のスタッフは、割と大きめな人が多いんです。日本ではたくさん食べる人達なんですが、全然駄目です。で、修行しなおしてきます」

曲辰「台湾の読者の印象についてはどうでしょう?」

京極「判らないですよね。日本の読者の方と同じです。ただ、ちょっと女性が多い(会場笑い)。言葉は喋らなければ見たのはほとんど変わらないので、やー台湾の方だなという感じは別にしないですけど、僕の本を読んでくださっている人達は割と何ていうんですかね、おとなしいというか、紳士的な方々が多くて、日本でもね。とてもその騒いだりしない人達なんです。こちらも何かそうですよね。皆さん粛々としてらっしゃって。ああそうなんだな、と思いました。いい読者が多いですね。」

曲辰「先生の小説にはあとがきもありませんし、作品秘話のようなものが語られることもありません。ああした作品というのは、いったいどこから書き始めるものなんでしょう?」

京極「えーと……どこからというのは、着想がということが? あのー……僕の小説は、長いんです(会場笑い)。長いんですけど、内容的には簡単なんです。なので、えーと、一度に全部できます。はい。ただ、長いので書くのに時間がかかるわけですね。もし僕に通常の人間の数百倍の早さでパソコンのキーを打つ能力があれば、月に一冊は本が出せるんですが、残念ながら私の手は二本しかなく普通の動きしかできないので、いつも遅い遅いと怒られます。

えっとですね、出版社によってどんなものを書くか、どんものが求められているのかは違うわけです。で、こんな小説を書いてみませんか、書いてくださいという依頼があります。で、まあ私はどうしようと考えるわけですが、自分に書けないものは、その段階でお引き受けしない。で、書けるものだけを……だいたい層ですね。台湾の場合、書名はほぼオリジナルと同じなので、おわかりかと思いますが、たとえば姑獲鳥の夏、これタイトルと中身は、イコールなんですね。つまりタイトルができた段階で中身は全部できてる。で、メモが嫌いなんで、何もこう……一切書かないんですね。この段階でタイトルができた、こう書くって決まっちゃってるので、それを忘れないように書くだけです」

曲辰「だとした高精度な音声認識の機械でも発明されれば、二ヶ月ほどで百鬼夜行シリーズや巷説百物語シリーズが一本書けてしまったりするわけですね」

京極
「口述筆記というような?……ただその場合ですね、女性のキャラクターの台詞が恥ずかしい(笑)」

曲辰「友達に代わっての質問なんですが、先生はどうしてそんなに早く書けるんでしょうか? 以前は、天才に限界はない! みたいなことを答えてらっしゃったと思うんですが」

京極「そんなことないですよ。天才とかいうことはないです。僕は才能っていうのはないと思うんですよね。別に信用してないです。多分、みんな一緒だと思います。で、この人才能あるね、と言いますけど、それは結果論ですから。小説はですね、字が書ければ誰にでも書けます。ただ普通の人はですね、書いても恥ずかしいから見せないんです。恥知らずの人は見せちゃうんですね。たまにそれがお金になる場合がある(会場笑い)。そうするともっと書けと言われる。その繰り返しです」

曲辰「先生にとって、編集者というのはとても大切なものですか?」

京極「小説はいくらでも書けますけど、書いただけでは完成しないんですね。小説って。小説は読んだ人、読んでくれる人がいなければ未完成なんですね。なぜなら感想は百人から百通り違っていて、全部正解なんです。だから読者の人が読んで、何かをこう自分の中で物語ができあがって、初めて小説って完成するんですね。ということは、読んでもらうために本にしなければいけない。つまり書いただけでは未完成で、読むもののためには本にして、本屋さんで売ってもらわないと駄目なんですね。そうすると、出版社の方、編集者の方――これなくしては僕の小説は完成しないということになります。なので、まあ、日本の編集者は僕にとっては大変重要な、パートナーですし、この台湾の皆さんに読んでもらうためには翻訳してくださる方と、そして台湾で出版してくださる出版社の方々、これはいないとね、皆さんの手元に届かないんです。そうするとこんな機会も持てないわけですね。ですから、もう本当に大事な人たちです」

曲辰「先生は作品のタイトルを考えると、一度に全部できるとおっしゃいましたが、そうした小説の物語というのはいずれも妖怪に関するものですよね。非常に日本的というか。一方、先生が生まれ育った場所というのは、非常に西洋化された都市だったわけで、そうした日本的で、繊細な感性はどのようにして育まれていったのか、そして妖怪というものを自身の創作のテーマに選んだ理由というのを教えていただけますか?」

京極「何故でしょうね。あの、僕はまあ、確かに今、よくご存じですね――日本の中でも僕の生まれた場所というのは、日本的ではない。ただこう、日本的じゃなくてもですね、日本ではあるわけです。文化としては、国としてはというよりは、文化としては日本の文化ですね。ところがですね、歴史が浅いので、伝統的な建造物というと、まあこちらでいうと、お寺、お墓、神社、ぐらいしかないんですね。僕は非常に日本の文化というものを敬愛していたので、北海道というね、日本的でない土地の中で、好みの場所はお寺、お墓、神社。ちょっとへんなかんじですね。で、まあ、妖怪に何故そんなに惹かれたのかということはよく訊かれるんですけど、最終的にはですね、僕は妖怪というの日本の文化に惹かれたんだろうと思うんですね。日本人だからというのはしょうがない、自分が暮らして育ったんで、どうして日本ってこんな国なんだろう、どうして私たちはこうやって暮らしているんだろうということを考える……というとですね、これは民俗学、まあ、民俗学というと二種類あって、……フォークロアですね、エスノロジー。民俗学的な考察をしないといけないということになりますね。そうして見直したときに、ものすごく日本的なものとして妖怪という概念があったんですよね。だからそのせいじゃないかなと思うんですけど」

曲辰「つまり妖怪というのは日本の文化を代表するものであると?」

京極「えっとですね、妖怪という言葉は中国にももちろんありますね。ですから台湾の皆さんも普通に使ってらっしゃると思うんですけど、多分ですね、私たちの使っている妖怪と皆さんの使っている”妖怪の意味が違うんじゃないかなと思うんです。なぜなら日本の中でも妖怪という言葉は、歴史的な変遷を経て今に至っていて、百年前と今ではまるで意味が違うんです。もしかしたら僕の小説の中に出てくる妖怪という言葉を、台湾の皆さんは違う意味で読まれているかもしれないんですね。ちょっとそこのところをお聞きしたいなと思うんですが」

曲辰「どなたかこれについて答えることができる方は?」

読者「台湾も日本も同じだと思います。そんなに大きな違いはないんじゃないでしょうか。人の心。多分おんなじだと思います。人の心。あやかし」(taipeimonochrome注:女性の方だったのですが、ここでは”あやかし”と日本語で答えてます)

京極「えーとですね、ところがですね、日本は違うんです。妖怪はこの世に存在しません。人の心が見せるあやかしです、みたいな受け取られ方はしてないんです。日本では。ちょっと日本の妖怪のお話をしていいですか?(拍手)あんまり簡単にすまないんですけどね。

あの、今ですね、僕は昨日、台中に行きまして、ゲゲゲの鬼太郎というのを見てきました。ゲゲゲの鬼太郎を書いた人、水木しげるという人です。今年、九十です。この人はですね、僕の師匠ですね。皆さんは、ですからゲゲゲの鬼太郎を見たことがあるかどうか判りませんが……ありますか? あれ、鬼太郎がいて、ねずみ男がいて、悪い妖怪が出てきて、やっつけますね。で、いい妖怪もいっぱいいます。これはいい妖怪です。つまり妖怪というのはですね、キャラクターとして認識されてるんです。ただ漫画のキャラクターではなく、その漫画のキャラクターが出上がる背景というのがある。それが他の漫画、『ONE PIECE』なんかとは違うことなんですね。

で、そうしたキャラクターたちを妖怪と呼ぶようになったのは、実は四、五十年前のことなんです。それまでは妖怪というと、日本ではオカルトという意味でした。オカルトいうのは通じるんですかね? えーと、なんか幽霊が出たりとかUFOが出たり、それから……そうですね。UMA。雪男とか、ネッシー。それから超能力。そういうもの全般、これがオカルト。日本ではオカルトといっちゃいます。そうしたものを妖怪と呼んでいました。明治時代ですから、百年……ですね。

そういうものはまあ、やはり非科学的であり、いかがわしいものとして、近代化の際に否定されていくんです。つまり妖怪は否定されてたんですけど、それは今私が知っている妖怪が否定されたわけではないんですね。さらにその先、江戸時代。江戸時代というのは、何て言えばいいんですかね。江戸時代には、化け物と言われていました。化け物というのは、本来的には怖いものですね。モンスターとかクリーチャーとかっていうものだろうと思われがちですが、実は江戸時代有名になった化け物というのは、当時の本に出てくる子供向けのキャラクターでした。

で、オカルトとしての妖怪が近代化によって否定されていった頃、日本には民族学という、先ほど言ったフォークロアという学問が立ち上がります。それは、文化を研究することによって、今の人間たちの心のあり方を知ろうという――伝統行事だとか、物事の名前、それからお祭りなどの習俗や信仰、建物の建て方、そういうものを調べてですね、どんどんどんどん、その文化がどうやってできあがっていったのかを考えるという学問です。そういうフォークロアという学問ができました。そのフォークロアという学問が、成熟してきて、成熟してくる過程で、各村、各町のですね、分類できないあやしいものが伝わっているということがたくさん集まるようになってきました。それは学問ですから、集めるだけです。それをですね、水木しげるがキャラクターにしたんです。で、そのキャラクターにする際に、江戸時代のお化け、化け物と融合させました。つまり私たちの知っている妖怪、いま鬼太郎にやっつけられている妖怪は水木しげるが考えたものではないけれども、水木しげるがつくったようなものですね。

それで私たちに日本の――現代の日本の人達に、妖怪って何ですかって訊くと、鬼太郎に出てくるやつっていうんです。ところがですね、鬼太郎に出てくるやつは、ドラえもんとは違い、ものすごくですね、歴史的、伝統的、文化的背景を隠し持っているんです。その隠し持っている部分を知らないと、面白くないんですよ。ところがですね、この隠し持っている部分をただ、だらだらだらと文に書いただけでは、誰も読まないんです。そこで、その妖怪についてもっと愉しむために、妖怪をもっとよく知るために小説にしてみたらどうだろうかと思ったんですね。面倒くさいんです」

曲辰
「先生は凄いですよ。先生の本を読むだけで、妖怪に関してのものすごい知識をお持ちなのが判ります。学校の授業で私の先生が姑獲鳥の話をしたときに、生徒の誰も知らなかったということがあって、その先生はとてもがっかりしていたんですけど――もちろん私はそのときにちゃんと話をしましたけどね。小説をフィクションとノンフィクションものに分けるとすると、先生の作品は幻想的であるわけですが、先生は、幻想的なるものにどのような感覚を持たれているんでしょう? あるいは幻想とは先生にとってどういうものなのか」

京極「えーとですね、小説って、字しかないんです。ですから、何を書こうと字になっちゃうんですね。そうですよね。ということはですね、事実を書く、つまりノンフィクションを書きましたと。書いたところで字なんです。それはもう現実ではないんです。で、書く人間の主観がどうしても入るんですね。客観的事実だけを書き留めたといっても、その客観的事実が客観がどうかを判断するのは主体であるわけですから、主観ならざるを文章というのはないんですよ。つまり文になった段階で、ノンフィクションはノンフィクションとして成り立たなくなってしまうわけです。で、一方フィクションは最初からそのままフィクションですよね。僕はだからその、文字で書かれたもの全般に関して、それはもう読み取る人間次第によってはどうとでも読めるものになってしまうわけですから、僕は文字がイコール幻想だというふうに考えていますね。

ただし幻想と言ってもですね、いわゆるファンタジー――ハリーポッターみたいな、ああいうものをして幻想と言っているわけではありません。その文字を読むことによってその人の中になにがしかの真実が立ち上がるかもしれない。そうだとすると、それはその人にとってはフィクション以上のものになってしまいますね。あるいはそのストーリーを愉しむだけで、もう十分いいかもしれませんし、キャラクターにだけ思い入れる、そういう読み方もあるし、読み方は人それぞれだと思います。ただ、書かれたもの自体は多分みな同じ、等価だと僕は思っているので、自分の書いたものも、その、ただの字だと思ってます。ただ、読む人がそれをどう読んでくださるか、たぶんここに集まってくださっている方々がもし僕の書いたものが面白いと――もし思ってくださつているならば、それはその人が偉いんです。読者が一番偉くって、二番目に偉いのは翻訳した人。その次に偉いのがまあ、本をつくった人たちで、作者は一番位が低いんです」(続く)