異色作にして問題作。ジャケ帯には大きく「ラスト5ページで世界が反転する!」。仕掛けの場所と「世界が反転」と記している時点で、「その筋」の方々には「重大なネタバレ」と指弾されること確実、という挑発的な惹句にまずは眼がいってしまうわけですが、このジャケ帯はよくできていて、まずロジックだ何だと原理主義的な読みをヨシとする「その筋」の方々にはこの「重大なネタバレ」によってお引き取りいただき、その裏で、本作がターゲットとしている本当の読者に向けては「「葉桜」も「本格」も「どんでん返し」もひとまず忘れて、歌野晶午が到達したすばらしい小説世界を堪能してください」と本作の物語世界への扉を開けて招き入れるという周到さが素晴らしい。
実際のところ、「ラスト5ページで世界が反転する!」という、本格ミステリーらしい惹句と、「「どんでん返し」もひとまず忘れて……」という言葉は矛盾しているように感じられるわけですが、読後、この二つの惹句の構成は非常によくできているな、と感じた次第です。その理由については後述します。
物語は、かつて娘をひき逃げ事故で失った中年男が、スーパーで万引き女をつかまえて……というところから始まります。この二人の「偶然」の出会いから、やがて過去の娘の死の「真相」が明らかにされ、……という話。
物語の結構そのものは、本格ミステリーらしくない、あからさまな謎の提示もなければ、緩急にも乏しい、淡々とした展開で進んでいきます。最後の最後、――ジャケ帯の惹句にあるラスト5ページより少し前から、意外な「真相」が読者の前に提示されていきます。この「真相」から最悪な結末となって、登場人物たちは奈落に落ちるのか、それとも……と不安な気持ちでページをめくっていくと、ラスト5ページで、「探偵」の口からもうひとつの「真相」が語られていく結構はまさに破格。
隠されていた「真相」が「探偵」の口によって最後に明かされるという結構から、本作を本格ミステリーとして読むことも可能でしょう、その一方で、「探偵」が最後に読者に提示してみせた「世界を反転」せしめる「真相」に対して、推理もヘッタクレもない、と――本格ミステリーとしての瑕疵をあげつらうことも可能でしょう。本作はその淡々とした展開から本格ミステリーとして読まれることを敢えて忌避しているようにもとれるし、またその一方で上に述べたような「探偵」の口から「真相」が語られるという定番の結構を残しているところから、本格ミステリーとして「も」読まれることを期待されているようにもとれる。ここが本作の魅力だと個人的には感じるのですが、いかがでしょう。
原理主義者でなくとも、ラスト5ページで「探偵」の口から語られる「推理」が穴だらけであることは明白でしょう。いや、むしろ、そうした本格ミステリーとしての瑕疵を読者に読み取ってもらいたいようにも見えるわけで(以下文字反転)、たとえば273pでひき逃げ事故があった当夜、その犯人とされる人物は事件現場ではない、別の場所にいたということが「探偵」の口から語られています。しかし本格ミステリーの読者であれば、この「アリバイ」に疑問を抱くのは当然であるし、この「事実」を語っておきながら「探偵」はその裏取りについてはまったく一言も述べていない。また幼なじみの親友についても、ただ「事実」と思しきものを語っているのみで、そこには推理もなければ裏取りもしていないように、「物語の外にいる読者」には見える。
ここからはあえて作者の意図を無視して、「誤読」をしてみたいと思うわけですが、では、この本格ミステリーとしては致命的な瑕疵を「世界の反転」の中で明かして見せた結構の「真意」を読み解くヒントは何か、――それは274pの後半にある「物語である」という言葉に集約されているような気がします。「犯人」が操りをも見せながら「物語」を創作してみせたというのが「探偵」の「推理」であるわけですが、これは物語の外にある読者から見ると、そう述べている「探偵」の「推理」もまた「物語」のひとつに過ぎません。
「最後に真相を明らかにする」という本格ミステリとしての幕引きは、果たして、この物語の登場人物、――特に後半の殺人事件の「犯人」へ「救い」と「安らぎ」をもたらすだろうか……これは「探偵」が幕引きの直前に語っている言葉でもあるわけですが、この言葉のあとにも、「絶望」を超克する道筋は示されず、物語は「秋も、もう終わる」という一文で終わっています。つまり『春から夏、やがて冬』というタイトルに相反して、物語は冬に入る前に幕引きを迎えている。これを、本格ミステリー的な「真相」は敢えて読者に委ねられている暗喩と解釈することも可能でしょうし、そこからさらに踏み込んで、「探偵」の「推理」の瑕疵を突いて、登場人物たちを真に「救済」しえる「真相」を読者自身の手によって見つけてもらいたい、という作者からのメッセージともとれるような気がするのですが、いかがでしょう。
つまり、一読したときに感じられる後半の本格ミステリーとしての瑕疵は、ただの瑕疵ではない。本格ミステリーとして読まれることによってはじめて、それらの瑕疵は「発見」され、そうしてこそ物語の中では見いだしえなかった絶望を超克得る真実の道筋(真相)が創出される。「探偵」は読者であるという点は、ある意味『イニラブ』的な現代本格と同じ趣向をもった作品ともいえるわけですが、読者の再読と、本格ミステリーとして読まれることによって登場人物を「救済」するという手法は、北國浩二『サニーサイド・スーサイド』にも通じるものがあります。
そうして見ると、作者が創出した本格ミステリとしての物語を「受け身」でしか読めないような読者にお引き取りいただく「戦略」として「ラスト5ページで世界が反転する!」という惹句は秀逸であるし、またその一方で、まずは「本格もどんでん返しも忘れて」本格ミステリーではない物語として、普通の小説として読んでもらいたい、――そう訴えているジャケ裏の帯とのコンビネーションは絶妙であるといえます。
『葉桜』を期待して読んだ読者は、ラスト5ページにおける「世界の反転」には何か納得のいかない、物足りない気持ちになることでしょう。しかしその場所こそが、本作における登場人物たちを「救済」しえる「冬」の物語の出発点でもあります。そして再読によって見えてくる本格ミステリーとしての瑕疵を端緒に、この絶望の物語の「謎」にたいして読者が「探偵」となって、「真相」を見いだしてようやくこの物語は完結する――『葉桜』とはかなり異なる読みの技法が要求されるであろう一冊ながら、現代本格の読者であれば十二分に愉しめるのではないでしょうか。オススメでしょう。