地獄行きでもかまわない / 大石 圭

地獄行きでもかまわない / 大石 圭 光文社文庫の大石小説で一番のお気に入りはと訊かれれば、自分の場合、『人を殺す、という仕事』になるのですが、本作もなかなか。ただひたすら破滅へと堕ちていく男の日常生活を「淡々」と描いた展開で、様々なイベントを起こして破滅への加速を競うような結構へと敢えて仕上げなかったところに、大石氏ならではの主張を感じた次第です。とはいえ、一般小説しか読んでいない、あくまで小説の定石を求めるノーマルな読者にとってはこの「淡々」とした展開は欠点にしか映らないカモしれませんが、この点について後述します。

物語は、大学の合コンで知り合った売れないモデルの女の子にホの字となったワナビー野郎が、数年を経て彼女に再会、――と書くと、作者のファンであれば、名作『アンダー・ユア・ベッド』を想起されることでしょう。『アンダー』がDV野郎とストーカーというゲス同士の対決をサスペンス溢れる筆致で描き出したのに相反して、本作ではかなりの長い年月を掛けて物語はゆったりと進行していきます。

再会を果たした彼女に、主人公のワナビー野郎はある嘘をついてしまいます。この嘘の内容については、作品紹介のところでも言及されていないゆえ、ここでも触れないでおきますが、とにかくこの嘘にコロリと欺されてしまったモデル女は玉の輿を狙って彼を誘惑。見事に嘘つきワナビーのハートを射止めた彼女と主人公は結婚して、――というところまでで物語はまだ半分も進んでいません。

この嘘がいつバレるのか、主人公はビクビクしながら毎日を騙し騙し送っているのですが、モデルを諦めて専業主婦となった女の方は、すっかりセレブ気取りで浪費しまくるものだから、彼の貯金がいずれや底をつくのは明々白々。これが大石小説でもよくある、莫大な親の遺産を引き継いでいれば良いのですが、小金持ちゆえ数年であればどうにか妻を騙せるカモ、――というこの微妙なさじ加減が素晴らしい。「行けるところまで行こう。行けるところまで行こう」と自分に言い聞かせながら、いつか必ず訪れる破滅へと向かって毎日を送る主人公の内心を考えると嫌でも心拍数が上がり、血圧も急上昇してしまうのですが(爆)、破滅まであと一歩という危機が訪れるたび、主人公はその場をかなり大胆な方法で切り抜けていく展開がまた辛い。嘘以上に重大な犯罪まで犯して地獄行きを引き伸ばしていく主人公には、それでも次々と「幸せ」が訪れて”しまう”という運命のいたずらが何ともなおかしさと悲壮感を醸し出しています。

本作で興味深いのは、タイムリミットを主人公自身が設けた結果として生じるサスペンスを活かした前半と、後半の淡々とした日常生活から醸し出されるサスペンスはやや質感を異にしていることで、上にも述べた通り『オールド・ボーイ』ほどではないにしても、物語の時間軸が十年近くに及んでいることが、主人公の内心にも微妙な変化をもたらしていています。この「淡々と」した日常生活から滲みだしてくる主人公の不安描写は相当のもので、章を経るごとに主人公の生活も表向きは幸せになっているという、――彼の心理と外見との乖離がまだ大石小説ならではの酷薄さをもたらしている趣向も秀逸です。しかしながらこの長い時間軸の中で、「淡々」と日常を描き出したからこそ感じられる重苦しい不安感は、めまぐるしいイベントを矢継ぎ早に繰り出した性急な展開でサスペンスを喚起する昨今のエンタメに慣れてしまった読者にはむしろマイナスに作用するカモしれません。まあ、このあたりはあくまで好み、ということで。

もう一点、本作における構成の妙を挙げるとすれば、主人公が地獄へ堕ちる寸前で救済されたのち、彼の「嘘」の元となった人物の視点からその後が語られ、作家志望であった彼の半生が「物語」へと昇華されるという趣向でしょう。「語る」側であった主人公が「語られる」側へ裏返るとともに、物語の陰陽をなしていた主人公と、その「嘘」の元になった人物とが美しく反転する。確かに大石ワールドの住人そのものとしかいいようがない、「嘘」の元の人物の半生が最後に駆け足で語られる逸話は蛇足では、――という意見ももっともではありますが、こうした作者ならでは物語の構成の趣向を鑑みれば、この逸話もまたこの物語には必要であったのでは、と思うのですがいかがでしょう。

いつ破滅するのかという不安を、読者が作中の主人公と共有することで心臓がバクバクになるという点では、大石小説中もっともイヤ感を味わうことのできる本作、この幕引きを絶望的な”ハッピーエンド”というにはやや躊躇いがありますが、主人公を影とした場合、その光であったもう一人の重要人物が自らの闇を克服できたという点では、”ハッピーエンド”、――といえるのかもしれません。大石小説のファンであれば文句なしに「買い」ですが、あくまでノーマルなエンタメを所望の一般人の方には取扱注意、といううことで。