伏せ字だらけの『第七回 金車・島田荘司推理小説賞』二次選考選評

第七回 金車・島田荘司推理小説賞の受賞作が確定したとの知らせを受けたので、今回の二次選考の選評をここに公開します(なお、受賞作発表は9月の予定)。従来、二次選考の様子は金車文藝中心の季刊誌『藝文風』に掲載されていたのですが、以下の選評にもある通り、今回はコロナ禍とそれに付随する様々な要因により、従来とは大きく異なるやり方で二次選考が行われたため、掲載は見送られることに。

そして、今までは三人の選考委員それぞれが推す一作を提出して、入選作となる三作を確定する方式だったのですが、今回は日本人の選考委員一人が三作を選出するかたちで行われました。入選作は既報の通り、『隨機死亡』、『棄子』、『喪鐘為你而鳴』の三作となります。以下ではネタバレを避けるために伏せ字を交えた文章となっており、一読しても「??」カモしれません。まあ、あくまで作品の雰囲気を感じ取ってもらえればということで。

 


第七回 金車・島田荘司推理小説賞二次選考選評

 

入選作
『隨機死亡』
『棄子』
『喪鐘為你而鳴』

 

三作の選出過程について

今回はコロナ禍ということもあって、二次選考はかなり変則的な形式で行われたことをまず記しておきたい。今までは、三人の選考委員が一人ひとり一作を選出する方法を採っていたが、今回は選考委員一人が三編を選出している。もっとも、入選作三編を決める過程において、島田先生の意見が反映させていることをここに申し添えておく。

まず二次選考委員が選んだ四編は、今回入選した三作に加えて『積木花園』である。『喪鐘為你而鳴』と『棄子』は入選作として相応しく感じられ、この二編についてはそのままとし、『隨機死亡』と『積木花園』のいずれを採るかについて、島田先生に意見をうかがい、最終的には『隨機死亡』を含めた三作を選出した。とはいえ、『積木花園』が三編に較べて劣っているというわけでは決してない。

『隨機死亡』と『喪鐘為你而鳴』は非常に傾向の似た作品である。その一方で、ハードボイルドの作風に騙りの仕掛けを凝らした『棄子』の個性は際だっている。毎回の二次選考においては、選考委員の三人の個性に依拠した作品を選出しており、それがまた本賞の特色でもあるのだが、今回は選考委員が一人だけということもあって、選者は作風の偏りを何より恐れたのである。

個性的という点では『積木花園』もまた注目されるべき傑作だと思う。冒頭の、子どもが書いたと思しき幻想的手記の「幻視力」に加えて、その幻想がロジックによって見事に解体されていくプロセスは『眩暈』を彷彿とさせる。また謎の手記の真相を探るうちに、七星館なる異様な建物での不可解な連続殺人が浮上してくる展開も期待通りで、この館で発生する不可能犯罪のつるべ打ちは『斜め屋敷の犯罪』や小島正樹の諸作を彷彿とさせ、本格ミステリファンであれば十分に愉しめるであろう。さらにこの作品は、探偵とワトソン役がコロナ禍のなかで調査を行うという、社会派としての風格も備えている。そうした点からも、この作品は世に出るに相応しい作品かとも思ったが、一方ではこの作風をすでに手垢のついた、古めかしい作風として忌避する読者もいるのではないかと思われる。この点をして、入選作への選出を躊躇わせた。

一方の『隨機死亡』は、とらわれの身となった彼らの前に、カラクリの魔女カーリーなる異形が現れ、謎解きゲームのルールを説明する。強制参加されられた人物たちはそのルールに翻弄され、一人また一人と殺されていく――という、『CUBE』以降のこれまた定型ともいえる展開を見せるのだが、本作では本格ミステリファンの興味をくすぐる様々な仕掛けが凝らされている。カラクリ魔女カーリーなる異形と、異形を極めたルールなど、破格な設定が光る怪作だが、いささか長い。後述する『喪鐘為你而鳴』に比較すると、先鋭的な作品である一方で、冗長さと盛り込みすぎが徒となって、何となく魅力が減殺されているような読後感があった。

この点も含めて、島田先生に『積木花園』と『隨機死亡』のどちらを入選作とするか、と訊いたところ、その破格さこそが本賞には相応しいとの意見をいただき、選者は『隨機死亡』を三編目として選出することにした。定型にとらわれない、同様の傾向を持つ破格の二作品『隨機死亡』と『喪鐘為你而鳴』が入選となったが、かといって『積木花園』が『隨機死亡』に比較して劣っているわけではないことは、繰り返し述べておきたい。あくまで本賞に相応しい作品ということで『隨機死亡』が選ばれた「だけ」の話である。仮に四作品の選出と言うことであれば、選者は迷うことなく『積木花園』を挙げていただろう。

さて、以下は選者による三作品の評価であるが、各作品の優れた点について忌憚なく意見を述べるには、作品のトリックや構成における核心部分にも触れる必要があるため、以下ではその点に留意されたい。

 

『隨機死亡』

『隨機死亡』は上にも述べた通り、映画では『CUBE』、あるいは本格ミステリであれば、さしずめ米澤穂信『インシテミル』などを彷彿とさせる作品である。本作の極めて優れた点としては、カラクリの魔女カーリーなる異形が明示したルールに従うまま、各人がチームを組んで各階層で謎解きを行い、最上階を目指す――という枠組みのさらに外側に複数のフーダニットを重層させた仕掛けであろう。デス・ゲームの渦中にある参加者を追いかける読者の視点からすれば、表面的なフーダニットは「誰が最後に生き残るか」である。これはこうしたデス・ゲーム形式の物語においては定番かつ必須のものとなる。もちろん本作でもこの点については漏れがない。

しかしながら、本作では、各階で提示される謎解きの成功がそのまま生還に繋がるわけではない。さらに各階で提示される問題「××××」が、強制参加者を繋げる××××××××を解き明かす鍵になっている点も秀逸である。読者も参加者とともに謎解きに挑戦することになるが、そこで提示される謎解きの問題そのものが、××××××××に大きく関わっており、それがまた××××××××××××××××××××にも繋がっていく。各階で参加者たちの前に提示される事件現場の展示は、×××××××××××××××××であり、謎解きがそのまま×××××を炙り出す。しかしながら、デス・ゲームの展開そのものは、そうした×××××××を隠蔽する方向へと機能している企みも秀逸である。

さらに本作が巧妙なのは、この×××××××の内実に、×××××××と××××××××××、という××××××××が仕掛けられている点だ。×××××××が、×××××××を×××××として立ち現れる×××××の犯人という真相までは予見できるものの、謎解きの問題として提示される各部屋の展示が、×××××と大きく関わるもの――という前提に立ちながらも、読者の視点からは××××××××しか見えておらず、×××××××××××××××××××、という不審点は見過ごされてしまう。実は×××××××××××××××××××××××なのだが、この気づきから最後にカラクリ魔女カーリーの正体が明かされていくレッドヘリングの使い方も巧みである。

全体を俯瞰した感想は上の通りだが、各階で提示される謎解きの問題も、短編として素晴らしいものが多い。各章で提示された謎を解決する構成によって、読者を飽きさせることなく物語を進めていく一方で、上に述べた通りに××××を解き明かす伏線とした趣向は、泡坂妻夫の『×××××××』を彷彿とさせる。すべてにおいて、いかにも本格ミステリの読者の思考に知悉した、マニア好みの作品であろう。

欠点があるとすれば、いささか詰め込みすぎで、ときに冗長に感じられることである。冗長であるがゆえに、特に前半はいったい何が起きているのを理解するのに時間を要し、なかなかの苦行を強いられる。このあたりは『喪鐘為你而鳴』や『棄子』と大きく異なるところであろう。ただ読者をとことん愉しませたい、という作者の尋常ならぬ意気込みは買いたい。

 

『棄子』

『棄子』はごくシンプルなストーリーである。大富豪から、かつての愛人が生んだとされる息子を探してもらいたい、という依頼を受けた探偵が、一様の手紙をもとにその送り主を訪ねていく。しかし愛人の姿はなく、探偵は聞き込みを重ねていくうち、失踪した人物の過去を知ることになり――と、大まかにあらすじをまとめてしまえば、このようなものになるだろう。

この作品を読了して想起したのは、第二回島田荘司推理小説賞を受賞した陳浩基『世界を売った男』だった。物語の舞台から推すと、作者も香港の作家であろうと思われるのだが、その構成はおどろくほど似ているといっていい。過去の事件を追いかける主人公のストーリーに時折挿入される意味ありげなシーン。本作もその点は似ている。×××××××××××××のシーンが挿入されているのだが、その真意は物語の最後まで読み終えるまでは判らない。

一般的なミステリではあれば、この挿入されるシーンは、×××××××××××××ということになろう。読者は当然そういう先入観を持って読み進めていくのであるが、実は各シーンのところどころに違和感が仕掛けられている。実はこの挿入されるシーンは、××××××××××××××××××××××××××であり、「××」なのである。つまり、このシーンは、××××××××××××××でさえも知らない、×××××××であると知った衝撃はかなりのものだった。

一般的な「××」小説であれば、「××」は神の視点に立って事件全体の構図を統べる者である。従って、物語の終わりには、「××」が全体を俯瞰して、読者にその情景を説明できる唯一の存在と言えよう。しかしながら、本作においては、××だけが、「××」を超えた視点を持ち、××××××××××××××××××××××××××を知っている。この騙りの仕掛けが静かな感動と登場人物に対する共感を生み出す趣向は、文学的である一方、その技巧は非常に人工的である。本格ミステリの技法によって、純文学的な香気をまとった物語を書き切った一編という点でも注目に値する。

本作は、徹底的に本格ミステリの遊戯に淫した『隨機死亡』と比較されるべきであろう。どちらが本格ミステリとして優れているか、ということではない。『棄子』の持つ人工的技巧から生み出された文学性もまた、優れた本格ミステリの持つ個性である。

構成のシンプルさという点においては、三作中、本作がもっとも際だっていた。そしてシンプルであるがゆえに、挿入されるシーンの真意に読者は気がつかない。読者がそれを×××××××××と認識するからこそ、物語を読了してからあらためて、かの人物の「××」を「××××」、この物語が××××××××××××を、××者は××××××××ことになる。そう、小説としての物語は完結しながらも、××の中で、この物語は×××××なのである。このシンプルであるからこそ、×××××の小説として見事な幕引きを見せた構成に、選者は唸らされた。

さらに本作では、探偵が関係者を訪ね歩く過程で、ささやかな日常の謎が提示され、それを探偵はホームズ的な洞察力とロジックで解き明かしていく。作者はどんな端役であろうとけっして疎かにしない。この点においては演劇的な技法が用いられているように選者は感じた。

だからといって本作を映画にすることは可能か、と訊かれれば、ある一点において難しいかもしれないとも思う。というのも、×××××にある秘密があり、それは後半まで伏せられているからだ。叙述トリックというほど大掛かりなものではないが、この違和感は、探偵が関係者を訪ね歩く過程でささやかな伏線として描かれている。あるいは本作を舞台劇とした場合、それは「××」のエピソードとして××××××された×××××を、舞台上では「×××××」として演じるわけだから、かなり興味深いものになりそうな予感がする。様々に形を変えて展開可能な物語には伸び代があり、読者を飽きさせない気配りも見事である。

評者の感想として、まったく飽きさせることなく最後まで愉しめたエンタメ作品として、本作を挙げたい。本格ミステリ的な人工性が完璧なまでに脱臭されていることから来る文学的香気と、逆説的に、そうした風格が人工的な文学性を高めているところにおいて、評価されるべき作品であり、その点においては、『隨機死亡』とは対極的な作品と位置づけることができるだろう。

 

『喪鐘為你而鳴』

三作のなかでもっとも鮮烈な驚きを受けた作品である。かつて一世を風靡したミステリ作家の私は、妻の自殺をきっかけに断筆を宣言し、とある小島に我が子とともに移住する。そんな彼が眼を覚ますと、見知らぬ島の埠頭にいた。高速艇がやってきて、船からは白装束の人物たちが降りてくる。しかし彼らには私の姿が見えないらしい。私は幽霊になってしまったのだろうか? 彼らはデジタル・デトックスを目的としてこの島にやってきたことを私は知る。そして彼らが館に滞在している間、不可解な密室殺人が発生し――いかにも、コード型本格の結構を踏襲した作品に見えるものの、これこそがこの作品の大仕掛けとなっている。

デジタル・デトックスを目的とする館に電子機器は一切なく、電波も届かない。警察の捜査も現代科学による検証も不可能な環境で行われた密室殺人は、いったいどのようなものなのか。この点に関して、作者は語り手の私を借りて、現代の本格ミステリはどうあるべきか、という意見を述べている。この点について、作者が綾辻行人の『十角館』を意識していることは明らかであろう。

『十角館』が、孤島での連続殺人という、コード型本格に「擬態」して、そこに××××××を用いた名作とすれば、本作はコード型本格に「擬態」して、そこに××××××××の技法を大胆に取り入れた作品ということができる。その意味で、本作を「二十一世紀の『十角館』」と評することも可能であろう。

ビオイ・カサーレス『モレルの発明』を彷彿とさせる、語り手の私と、島にやってきた人物たちとの関係から、××××を巡って後半に展開される謎解きの妙も素晴らしい。×××と××××が問答を交わして、連続殺人事件の真相へと迫っていく推理の場面も今までにない外連があり引き込まれた。特に第二の密室における真相は、今までにないトリックではないだろうか。

一般小説に×××××の技法を導入することによって、それは本格ミステリの傑作となり得る、というのが選者の考えであるが、本作においては、一般小説ではなく、敢えてコード型本格ミステリを採っているところも興味深い。×××××××の技法の導入によって、本作においては、×××××××××××××××と、、×××××××××××××××によって立ち現れる×××××××××××××××との間に段差が生じ、それが鮮烈な驚きを喚起しているわけだが、作者は語り手の私の物語をいったん終了させ、もう一つの「××」を突きつけることによって、×××××××××××させている。だが、それによって××××××××××××××がぼやけることなく、作中に隠された×××××××××を作り出しているところも見事というほかない。

このエピローグで、××××××××であり、今まで読者が眼にしてきた××はすべて、××××××××××だった――ということが明らかにされるが、それでも、××××××××××が、×××××××××××××とはまったく異なるところにあることに注目したい。なぜなら、×××××××××においては、××××××××をつくりだすにはいたっていない。だとすれば、×××××××××××は、また「××××××××」ということになろう。すなわち、本作では、×××××××××××××は否定されつつも、それは×××××××××とはまったく異なる××××××××なのだ。広瀬正の『×××』にも通じる読後感は、また×××××に対する「情」を描き出し、それは語り手の私が執筆したとされる『データコクーン』から引用されたシーンとの見事な重なりを見せる。まさに本格ミステリの技法、それも××××××××の技法でしか書き得なかった情愛のかたちは、第一回島田荘司推理小説賞を受賞した寵物先生『虚擬街頭漂流記』とは異なるアプローチで、読む者を魅了するに違いない。