ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説 / 路那 (1)

『おはしさま 連鎖する怪談』には掲載できなかった台湾のミステリ評論家・路那女史の手になる「ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説」を日本語化したので公開します。『筷:怪談競演奇物語』の巻末に掲載されていたこの解説、日本語にしたところ原稿用紙換算で39枚という大変な長さになってしまったので、3記事くらいに分けて取り上げる予定です。なお、豪快にネタバレしているので、必ず『おはしさま 連鎖する怪談』を読了した後に目を通してください

 


 

台湾、香港、日本の五人の作家による短編小説集『筷:怪談競演奇物語』(邦題『おはしさま 連鎖する怪談』)がついに刊行される。この解説を書くために、メールとメッセンジャーの海に潜り、アーカイブを辿って知ったことだが、本作は企画の構想から始まり、こうして本として出版されるまでに二年を費やしている。

この企画の発端について

ことの始まりは、二〇一七年にまで遡る。台湾推理作家協会会員のひとりとして、会を設立した当初から、台湾ミステリのさらなる発展は私たちの願いであり目的でもあった。編集者の友人たちと集まれば、決まって華文ミステリの出版状況の話題となるのがいつものことで、獨步文化編集者の凱婷と会ったときもその例外ではなかった。それがいつのことだったかは失念してしまったのだけれど、冗談半分に、獨步文化では華文ミステリの本を出す計画はないのか、と水を向けてみた。出版業界が厳しさを増すばかりの昨今において、これはかなり思い切った提案に違いない。その場では、なおざりでもいいから前向きな答えを得ることができればと考えていたのだが――その計画はある、と彼女はきっぱり言うではないか。以前に『歧路島』(台湾で刊行されたミステリムック。陳浩基や寵物先生など五人の作家の五編を収録)や「尋找推理秘密客」などの企画に携わったものの、そのときの喜びがどれほどのものだったか、私が敢えてここで語る必要もないだろう。

大変なバイタリティに溢れた編集者とともに、私たちは二〇一七年の八月にはもう、この企画をどのような形にするか、そしてそれをどう進めていくについての検討を始めていた。多くの読者に優秀な華文ミステリの作家たちを知ってもらいたいというのが当初の考えではあったものの――薛西斯があとがきで述べている通り、『今は「美しいから」の一言で、はいおしまいとできる時代ではない。私たち作家は頭を絞り、読者が教会に足を踏み入れてみたくなる理由を考えな』ければいけない。多くの読者に華文ミステリの作家たちを知ってもらい、ファンを獲得することを第一の目標に置くのであれば、そのもっとも有効な方法は、まず作者に物語を書いてもらうことであろうことは論を俟たない。とはいえ、まずはその前に、読者が本を手に取り、その物語を読んでもらう必要がある。さて、どんな本がいいだろう。そしてどんな本であれば読者に興味をもってもらえるだろうか。思わず読んでみたくなる本とはどのようなものか? そして一度に多くの作家を紹介するにはどんな形式が相応しいだろう?

そうした議論を経て、私たちが最初にこれと決めた形式は「詰め合わせ」のような短編集だった。短編集であれば多くの作家に参加してもらえる。とはいえ、各作家の手になる物語が共通した要素もなくばらばらであれば、読者は「なぜこれらの短編を一冊の本にまとめたのか」と訝しむに違いない。そしてこの短編集の企図について読者に説明もしないままでは、複数の作者が参加しているからこそ生まれるであろう読書の愉悦も失われてしまうであろう。ここはしっかりとした計画を立てて挑む必要がある。さもないと、贅を極めた盛宴がフードコートでのちんまりした試食会に堕してしまう。また、この企画に参加してもらう作家たちには、合作であればこそ、華やかな火花を散らして素晴らしい物語を書いてもらいたい――合作ならではの刺激と様々な感情のゆらぎから、作家たちはいったいどのような傑作を生みだしてくれるだろうか? 私たちの興味はそこにあった。作家たちは作風もそれぞれ異なり、興味の対象も一律ではない。また一人で物語を綴るのと、多くの作家たちが競い合うのとでは自ずと結果も違ってくる。簡単に言ってしまえば、私たちは洗練された、読みやすく、またエンタメ性のある「詰め合わせ」を読者の元に届けたかったのである。また作家にしても、この企画で得た経験は、将来の長編作品へと昇華できるかもしれない。一方、読者からすると、この本は、気に入った作家の手になる他の作品を知ってもらうきっかけにもなろう。幸いこの企画はさまざまに形を変えて、初段階から結果を生みだしている。

その第一弾が、薛西斯の「珊瑚の骨」の主人公に据えた『不可知論偵探』だ。『CCC創作集』誌上に掲載されたこの作品は、漫画家である鸚鵡洲との合作となる新シリーズで、二〇二〇年には二人による長編作品が獨步文化から刊行される予定だ(訳注: 2021年2月に『不可知論偵探』は刊行)。

さて、ここまで筆を進めながらも、私はこの「詰め合わせ」がどのような経緯を経て、今日の「怪談リレー小説」へ大変貌を遂げたのかを思い返さずにはいられない。担当編集者とどのような形式が相応しいかの議論を続けるなかで、ふと思い出したのが、陳浩基と寵物先生による合作小説『S.T.E.P』だった。二〇一五年に刊行されたこの作品において、ふたりの作家は素晴らしい世界を作り出している。この作品では、おのおのの作家としての個性がいかんなく発揮され、競作ならではの成果を見出すことができる。そこからさらに議論を進めて、修正を重ねていくうち、ようやく「共同創作」という考えがまとまり、この企画の主軸というべきものが定まってきた。そしてこの企画に参加させたい作家のリストを睨みながら、私たちはついに五人の作家たちを選び出したのである。彼らは共通要素を用いるという制約の下で、五編の物語を繋げていくことになるわけだが、だとすると「共同創作」にはどのような形式が相応しいだろうか? 同じテーマ? あるいは同じ謎? 同じトリック(多重解決とか?)? 作家たちとも侃々諤々の話し合いを続けていくうち――そこから浮かびあがってきたものは、「共同創作」を前面に押し出しつつ、「リレー」を背後に据えたハイブリット形式の物語だった。

最初から最後までをリレー形式で貫くことにしなかった主な理由は、執筆から作品の刊行までに時間がかかり、大変な労力を要するからで、この点を考慮しつつ、私たちは「共同創作」の概念を取り入れるとともに、執筆陣を大きく二つのグループに分けることにした――前三編をそれぞれが独立した物語とする。そこでは共通する要素を用いて、共通の世界観をベースとした異なる舞台の物語を作り上げていく。後半の第四章と第五章では、前半の各編で共有された世界観を整理するとともに、それらを大きく反転させることが課題となる。またこの小説の核は、リーダビリティの高い、エンタメであることだ。小説の核を形成する二つの言葉は、「サスペンス」と「都市伝説・怪談」ということになろう。これであれば読者の興味を惹くはずだ。執筆陣にはこの範囲において存分に筆を振るってもらう――。

幸いなことに、私たちが「先発隊」と考えていた作家たちのほぼ全員がこの案に賛同し、さらにはこの企画に対してもさまざまな面において貴重なアドバイスをいただくことができた。この点において、日本人作家を参加させてはどうかという提案をしたのが陳浩基である。華文世界への影響を鑑みれば、日本人作家が参加するだけで宣伝にもなるし、執筆陣の創作意欲を掻きたてる一助になろう。それは「国境を越えた競争」というだけでなく、また「言語を超えた競争」という刺激にもなる(そして獨步文化はその使命を見事に果たした)。「リレー」と「共通のテーマ」を決めるにあたっては、すでに経験がある瀟湘神から助言があり、彼と薛西斯からは共通の要素をどこまで細分化するかについての議論を繰り返した。各編における共通の要素を狭く持たせれば縛りとなる。その振り幅をどう定めるかについてもあらかじめ決めておく必要があった。私たちにとって、この企画を進める議論は「苦しくもあり、楽しくもある」経験だった――楽しい部分は討論であり、また苦しい部分も討論である。当時のアイディアを説明するための様々な方程式を書き留めたメモが、いまもまだ私の手許にある。そう、それはまさに方程式だった。

先にも述べた通り、「サスペンス」と「都市伝説・怪談」は私たちが最初に定めたものである。だがこの二つの概念をどう物語に落とし込んでいけばいいかが問題であった。国境を跨いだ企画とすることが確定すると、そこで提起されるべき要素は三つの地域――すなわち台湾、香港、日本に共通するものでなければならない。企画の初段階においては、その共通の要素として「駅にまつわる都市伝説や怪奇譚」あるいは「各編に必ず登場する人物」といったものを挙げていた。その際に「必ず最後に解き明かされなければならない謎」について執筆陣と議論を重ねた結果、「解き明かさなければならない謎」をはじめに据えてしまうと物語の振り幅が狭くなってしまうことが判ってきた。また「駅」は、強度の文化性を持ち得ないゆえ、これを共通の要素にするのは相応しくないように見える――思案に思案を重ね、一つのアイディアを挙げてはそれを捨てることを繰り返すばかりの日々が続いたある日のこと、香港の作家である夜透紫の一言が私たちに光明をもたらしたのである。そのインスピレーションこそが「箸」だった。箸は台湾、香港、日本、さらには他国にもある共通の要素といえよう。箸という言葉がディスプレイに表示されたときの、雷に打たれたような、ふいに体をつらぬいて走る得も言われぬあの感覚はいまでもはっきり覚えている。そう、これだ! 文化的な色彩に溢れ、台湾、香港、日本という三地に存在する普遍的な要素である箸――これこそは、ほとんどすべての読者が毎日のごとく使っている日常的なものではないか! この「日常」の道具を、物語のなかでどのように「非日常」へと転化することができるだろう。そう考えるだけで心は躍り、同時に「箸」と決まると、「各編に必ず登場する人物」についても具体的な形にまとまってきた。そのとき誰が口にしたのかは、はっきりと憶えてはいないのだが(実際、この企画を立ち上げてから二年が経ち、その記憶も曖昧なのである)、「箸」とくれば、食べる「魚」というのはどうだろう、という話になった。三つの場所がいずれも海に隣接していることもおあつらえだ。その着想はいくどかの「変容」を経て、本編に登場する「左手に魚のような赤い痣のある人物」となり、いよいよ物語の骨組みが形をなしてきた――箸にまつわるサスペンスとホラーの要素を持つリレー小説であり、各編に共通した要素は「箸にまつわる奇妙な話・都市伝説」と「左手に魚の形をした痣がある人物」という形となった。

話がまとまると、次に決めなければならないのは、書き手の順番である。刊行時期や翻訳の時間など現実的な問題を鑑みて、まず日本の三津田信三に「日本の話」を書いてもらえるよう打診した。薛西斯と夜透紫には台湾編と香港編となる前半部を担当してもらう。瀟湘神と陳浩基は同じようなリレー小説や共作の経験があることから、最後のどんでん返しと物語の幕引きを決めてもらうのに相応しい。ということで執筆の順番は決まった。こうしていよいよ話が動き出すと、編集者や作家にとっては悪夢のような日々が続くことになる――ほとんど終わりのない執筆と評価、改稿の繰り返しである(メールを開くと編集者からのメッセージが届いていて、自分の記憶を疑わずにはいられなかったこともあった――前の原稿とこれは同じ作品なのだろう……か? 私の記憶違いなのか、それとも彼らは本当に書き直したのだろうか?)

しかし、成果が出れば、執筆陣と編集者の苦労も報われる。夜透紫があとがきで書いている通り、担当編集者は作家に優しいものの、原稿の出来には容赦ない。頭のなかにある自分の考えを作家たちにどう伝えればいいのだろう。そしてそれは決して作家の努力を否定するものではないことを示すには、どうすればいいか――担当編集者である彼女がそんなことに頭を悩ませている姿を私はそばで見守っていた。ご存じの通り、台湾では、欧米や日本のように編集者や出版社が率先して作家の作品を磨いていくという伝統がない。その一方で、多くの読者はこうした合作小説が台湾からも生まれることを望んでいるはずだ。『おはしさま』はそうした期待があればこそ実現した企画である。しかしこうしてこの企画が形になるまでの現場を実際に目にしてきた私は、執筆陣である作家たちと編集者双方の努力に大いなる敬意を払わずにはいられない。

この作品がこうして形となった背景には、関係者たちの大変な労力があったのである(続く)。

ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説 / 路那 (2)

ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説 / 路那 (3)