ちょっと間が開いてしまいましたが、皇冠のサイトに公開された第四回噶瑪蘭島田荘司推理小説賞入選作紹介の第三弾。前回の『H.A』、『熱層之密室』に続いて、今回取り上げる『黄』ですが、作者は第三回島田荘司推理小説賞で『見鬼的愛情』が入選しつつも、受賞を逃した雷鈞氏。以前のエントリ「『藝文風』最新号に掲載された第四回噶瑪蘭島田荘司推理小説賞入選者インタビューその三 『黄』の作者・雷鈞」にもあった通り、この作者も理系です。ということで、今回の入選者三名はおしなべて理系というあたりが、他の文学賞と違う特色のような気がするのですが、いかがでしょう。
彼は見ることができない。しかしそれゆえに鋭い直感と判断力を持っている。
遙か遠く、地球の裏側に位置する小さな農村で、無残にも眼をえぐられた子供がいた。彼は知らぬうちに未知の罠へと少しずつ足を踏み入れていき……
[あらすじ]
中国に生まれ、欧州で育った孤児の馮維本は、ある奇妙な事件を知ったことをきっかけに故郷へ帰ろうとしていた――
最近新聞でも大きく報道された「中国の幼児目つぶし事件」。
馮維本とその事件の被害者である小光にはある共通点があった。それは――二人ともまさに「目が見えない」ということ。だからこそ馮維本は小光を助けずにはいられなかった。
その一方で、馮維本にはあの事件を自ら解き明かしてやるという隠れた目的があった。
しかし馮維本がその地を訪れるや、警察は早々に事件を収束させてしまう。小光が襲われたあと、彼の叔母は井戸の中から死体となって発見される。しかし警察はその死を疑うこともなく、彼女の死は自殺だと断定する。その罪を悔いて井戸に身を投じたのだと。
事件は解決したかに見えたが、馮維本の直感は告げていた――事件はそんなに単純なものではない! 事件現場となった村にはいいようのない不気味な空気に満ち満ちていた。そして彼の付添人である国際刑事・暖幼蝶もまた何かを隠しているように見える。さながら一夜の間に全てが変わってしまったかのように、いまや彼の廻りの人たちすべてが鋭い爪と牙をあらわにして、彼を追いつめようとしている。その包囲網はしだいに狭められていき……
[作者紹介]
一九八〇年中国広州生まれ。二〇〇二年に北京大学光華管理学院を卒業。
子供の頃から様々なミステリー作品の面白さに親しみ、仕事の合間を見てはミステリーを書き始めて幾年月。物語の世界で登場人物たちと命運をともにする――すると、どんなに気分が沈んでいようともすぐさま落ち着いた心地がしてくるものだが、それこそは創作の醍醐味であろう。
[解説]
本作『黄』は、第三回島田荘司推理小説賞で『見鬼的愛情』が入選した雷鈞の新作となる一篇である。前作を、本格ミステリーというよりは、論理と真相の中に怪異と混沌を鏤めた幻想ミステリーとして愉んだ筆者としては、まず本作での作風の大きな転換に驚かされた。しかしそれ以上に、この物語が騙りの技巧を駆使した本格ミステリーでありながら、爽やかな読後感を持つ美しい文学であることに強く心打たれた次第である。
本作では、二つの時間軸で物語が語られていく。その一つは、中国の孤児院から始まる少年の物語であり、もう一方は、中国で発生した猟奇事件に興味を抱いた盲目の主人公が、彼の地を訪れて事件の真相を探り当てていく――というものである。早くも前半において、この二つの物語は重なりを見せるのだが、本作では上にも述べた通り、その考え抜かれた構成と技巧によって、本格ミステリーのみならず、優れた文学たりえている点に注目したい。
島田荘司によれば、日本では乱歩の功罪によって「探偵小説が文学よりも一段劣るとされる傾向」があるという。そうした背景があるからこそ、先人たちは黎明期から「探偵小説は文学たりえるのか」という問いかけを繰り返してきた。時を経て、綾辻行人が『十角館の殺人』で新本格の旗手としてデビューを果たした当時も、本格ミステリーにおける文学性への問いかけは「人間が書けていない」という批判に形を変えて再現されたわけだが、あの作品が「人物記号化表現」というまったく新しい本格ミステリーの技巧の創出によって生み出されたという島田荘司の指摘を鑑みれば、かの作品における批判が的外れであったことはすでに歴史が証明しているともいえよう。
では本格ミステリーにおいて「人間が書けて”いる”」とはどういうことなのか。いや、この質問は正確ではない。むしろこの問いかけはこうなされるべきであろう。「本格ミステリーという文芸ジャンルにおいて、人間はどのように描かれるべきなのだろうか」と――。
その答えが本作『黄』にある、と筆者は考える。本格ミステリーが「謎と論理を用いて驚きを喚起する装置」だとすれば、その驚きの中にはまた読者の心を激しく揺り動かす”何か”――その”何か”こそは文学性などという曖昧な言葉によってでしか表現できない文学の本質ではないか――が隠されているはずである。主人公が事件の調査を行うという「探偵」的行為を通じて長年隠されていたある真実を知るにいたるという構成によって、本作『黄』は、優れた本格ミステリーでありながら、同時に教養小説のごとき見事な成長譚にもなっている。そして「探偵的行為」や「謎解き」といった本格ミステリーならではの構成要素が、最後の真相開示によって主人公自身の劇的なドラマを開示する結構を支えているのが、作中の逸話に鏤められた伏線の数々だが、作者はそこで本格ミステリーにおける騙りの技巧と、先鋭的な文学技法の双方を駆使して読者を魅了する。
本作を読み進めていくあいだ、読者はこの盲目の主人公に寄り添い、まさに彼の「視点」によって物語の世界を認識していくわけだが、聴覚、触覚、嗅覚といった視覚以外を用いた文章表現によって、物語世界を伝えることの難しさは容易に想像できるであろう。それでいて本作の記述にはまったく違和感を覚えないばかりか、その流麗な筆致が最後には本格ミステリーにおける騙りの技巧と重なりを見せる構成は、もう見事というほかない。作者は、本格ミステリーの技巧によって「人間を描」くことで、本格ミステリーでありながら文学でもあるという恐るべき傑作を生み出したのである。
しかしながら文学といえど、本作がただの感動物語ではないことをここで読者に忠告しておくべきであろう。ポーが『モルグ街の殺人』によって創出した探偵小説という文芸形式は、ヴァン・ダインの「二十則」やノックスの「十戒」といった指針が示されたことによって量産化の道筋がたてられ、興隆を極めていく。そしてアジアにおいて日本人は、車やカメラといった欧米からの舶来品に対するのと同じように、憧憬と敬慕を持っていわば「盲目的」にこの新しい文芸形式を受容した。やがて探偵小説は推理小説や本格ミステリーと意匠を替えながらも、日本人は長きにわたってその技巧と物語の構築方法に様々な「カイゼン」を施し、本格ミステリーの技巧そのものによって「人間を描く」までに洗練された文学形式へと磨きあげていった――その大きな成果のひとつが先に挙げた『十角館の殺人』であることは論を俟たない。
ひるがえって中国大陸はどうであろう。欧米の黄金期における探偵小説や日本の本格ミステリーが広く読まれることになったのはつい最近のことであるという話だが、中国大陸の創作者は、かつての日本とは大きく異なり、自らの豊饒な文学の歴史と蓄積に絶大な自信を持っていたと見える。欧米に対する劣等感は微塵もなく、それゆえに欧米からの舶来品である探偵小説の襲来にもいっさいひるむことはなかった。果たして彼らは「十戒」の中の一文に”No Chinaman must figure in the story”の一文を眼にしたとき、どのような思いを抱いたであろう。ノックスが『探偵小説十戒』を発表したのが1928年。そこで筆者は、或いは――と考える。中国人の作者によって書かれた本作『黄』は――『十戒』の中に”中国人”の文字を書きつけ『黄禍論』を提唱した欧米人に対しての、およそ九十年を経て華文世界から放たれた痛烈なカウンター・パンチではあるまいか――と。
そう、爽やかな読後感を持ちながらも、この作品には確かに文学ならではの毒が秘められている。