藤原新也・書行無常展とトークイベント(ゲスト A-CHAN、伊原美代子、林ナツミ) その1

ミステリとはマッタク関係ないのですが、昨日、3331 Arts Chiyodaで開催されている藤原新也の『書行無常展』と、写真家のA-CHAN、伊原美代子、林ナツミ三氏をゲストに招いたトークショーを見てきたので、簡単にまとめておきます。

今回の書行無常展は、集英社から刊行された大傑作『書行無常』の内容をもとに、書とプリンタで刷りだした巨大写真が中心となっています。トーク・ショーで司会を務めた沖本尚志氏はこれについて「インスタレーション」であり「藤原さんのポートレート」という印象を持ったというふうに語っていたのですが、このあたりは写真を見に来たのか、それとも書を見に来たのか、あるいはパンフにもある「藤原新也の現在」そのものを見に来たのかによって変わってくるかもしれません。

沖本氏は「自分が写真の編集をやっていることもあって」会場に入るなり、まず写真に眼がいったと述べていたのですが、自分の場合、基本的に写真が目当てで行ったにもかかわらず、その点、沖本氏とはやや違ったというか、まあ、自分は写真に関してはズブの素人だからなア……とも感じた次第で、このあたりついては後述します。

会場は大きく六ブロックに分かれてい、パンフによると、「中国」、「日本」、「印度」、「三陸円顔行脚」、「死ぬな生きろ」、「福島桜」となっています。ただ会場を一巡した印象としては、入って右側を行くなりまず眼に飛び込んでくる「福島桜」と「三陸円顔行脚」を今回の震災のテーマにしたひとつとし、さらにその悲哀の構図の対としてそのすぐ隣に「死ぬな生きろ」が並べ、会場の向かって左手にズラリと並ぶキッチュな日本と中国のブロックの右側を橋渡しするかたちで、会場中心の奥に「印度」をテーマにした写真と書が展示されている、――というかんじで、まずこの展示の方法が秀逸でした。

ただ自分はパンフにある順路案内を無視して、というかこれに眼を通さずに逆に進んでしまったのはチと不覚でありましたが、まず度肝を抜かれるのがその写真、――といっていいのか、大判ポスターのように大きくプリントされたその写真の緻密さで、これだけは『書所無常』の本に眼を通しただけでは見えてこないものでしょう。たとえば182ページの印度で撮影された一枚。暗い川にぼんやりと浮かんでいる舟と人影、そして鳥たちという構図なのですが、本を見ただけではいずれの対象もおぼろげに写っているようにしか見えない。しかしこれが大きくプリントアウトされたものを凝視してみると、水面を羽ばたいている鳥に対して完璧に――それこそ剃刀のように――ピントを合わせているのが判ります。

あるいは216ページの、津波の力によって凄まじく荒れはてた瓦礫と倒壊した住宅を写し出した一枚。藤原氏ならではのグレーを基調としたこの一枚の写真からたちのぼる被災地の空気は、人気がないからこその静謐さを感じさせるわけですが、実はこの中に一人だけ、影が映っている。ようく眼を凝らさないと判らないのですが、こうして大きく引き延ばしたものを目の当たりにしてはじめて見えてくる緻密さと情報量を体感できたのは、大きな収穫でありました。今回の『書行無常』の写真は藤原氏がトーク・ショーで述べたいたところによると、そのほとんどをEOS 5D(MarkIIといったかどうかはチと失念。ただ5Dというのは聞き取れました)で撮影したとのことですが、フィルムではなくデジタルで撮ったデータの潜在能力を最大限に引き出してみせたこのプリントにはもう脱帽。

展示されている写真は、もちろんこれだけの大きさということもあるのですが、額に入った芸術作品としてありがたく拝観する――みたいな雰囲気は皆無。このあたりの型破りなところにも注目で、たとえば70ページにある「猿を書で襲う」。この猿のドアップ写真にいたっては、真ん中で大きく二つ折りにして会場の柱にデン、と貼られているといったあんばいで、会場のそこかしこに天井から大胆に垂らされた書と同様、無造作にも感じられる展示の仕方、さらには書行のときに使用したコスチュームや筆までもが飾られているところから、沖本氏が今回の展示を「インスターレション」と感じたのも納得、――ながら、上のようなかんじで写真を見て廻っているうちに自分はちょっと違った感想というか体験を得るにいたったので、そのあたりについて書いてみます。

上にも述べた通り、書にしろ写真にしろ、会場に足を踏み入れるなり、まずその大きさに圧倒されるというのがほとんどの方の抱く感想であるかと推察されるわけですが、大きな写真であるがゆえその全体を把握するためにまずそこから離れて眺める……しかし、そこから自分のようにその細部を確かめようとぐっと写真に近づいてプリントの具合を凝視しようと考える人もいるはずです。プリンターで刷りだしたものとはいえ、繰り返しになりますが、その緻密さと情報量は驚くべきもので、圧巻だったのは、214ページの魚の屍を撮った一枚でした。驚異的な解像度と大写しという見せ方によって、砂にまみれた魚の表皮のざらざらとした触感までもが立体的に迫ってくる。

……で、こうした見方で写真を眺めているうち、写真を見たあとに、その大きさゆえにやや離れた位置から眺めていた書についても、ぐっと近づいて見るようになってくる。すると墨の濃淡はもとより、さやかな凹凸がそのコントラストの中から油絵のごとく鮮やかに浮かびあがってくる……しかしその細部に宿る「何か」というのは、同じ凝視によって見えてくるものでありながら、解像度によって構築された写真から感じられるものとはまた異なるもので、やがて写真と書の細部の凝視を繰り返していくうち、写真からたちのぼる場の空気と書の「何か」がまざりあい、ちょっと言葉にはできないような感慨へと昇華されていく……というかんじで、この感動は、普通の写真展や絵画展ではけっして得られない、この書所無常展ならではのものでは、――と感じた次第。

写真と書のスケールにガツン、とやられて元気をもらって帰るというシンプルな鑑賞法こそがこの展示を愉しむ王道かとは思うのですが、これだけのブツを前にそれで帰ってしまうのはもったいない。個人的には、そこから細部に眼を凝らしてさらに写真と書からたちのぼるアウラを堪能するという見方をオススメしたいと思います。

何だか、えらく長くなってしまったので、トークショーの内容については以下次号、ということで。