書行無常 / 藤原 新也

大傑作。前のブログを始めたころは、たまーにミステリ本のほかにもいろいろなジャンルのブツを取り上げていたのですが、今回の新装開店を機にミステリや幻想小説以外の本も少しづつながら紹介していきたいと思います。で、その第一弾として藤原新也の最新作『書行無常』を。

今回はプレイボーイでの連載ということもあって、社会批判の鋭い視線はもとより、もう前衛芸術といってもいいんじゃないノ、という奇天烈ぶりとアグレッシヴさをブチ込んだ一冊としては、氏の作品中で最強、といえるのではないでしょうか。

被災地の写真が明示する悲壮さから、現代の受難を超克して読者を希望へと誘う筆致は氏ならではのもので、曰く「命を張ったエネルギーほとばしる元気になる本」としても強力にオススメできる逸品であるのはもちろんのこと、前半のユーモアを感じさせる奇天烈な試みも興味深い。

フォトショでコラージュしたんじゃないかと思わせるほど浮き世離れした構図を見せる青木ヶ原の写真は、写真という枠組みなど軽やかに超えているし、プレイボーイならではのおバカな企画「人間書道・筆女 晶エリー」を大真面目にやってしまうことの素晴らしさ、――と、この二つの驚きだけでも一見の価値アリ、でしょう。

そうした奇抜な着想ばかりに目がいってしまう本作ではありますが、もちろん変わらない部分もあって、たとえば「長野の帝王 愛情ご飯盛り付け三杯」の写真の、件の女性に野花を持たせているポーズなどは『千年少女』『花音女』を思い起こさせる氏ならではの得意技でもあるし、また「帝王」の家族についてさりげなく言及している文章は、『乳の海』に通底する主題を表しているようにも感じられます。

「被災地に救われる」も素晴らしい。この中で氏は円顔を子供たちに描いたときの心情を語っているのですが、曰く、

子供たちに円顔を描いた時も同じことだった。このずぶずふの絶望の中にあって避難所の子供たちの汚れない笑顔に私は驚いた。
そしてその笑顔を円顔として写実した。
子供を救おうと思ったわけではない。
私が目の前の”円顔”に救われたのだ。

「子供を救おうと思ったわけではない。私が目の前の”円顔”に救われたのだ」という一文は、これまた『藤原悪魔』の中でも、もう何度も読み返したか知れない名文「ある野良猫の短い生涯について」を思い起こさせます。これも引用しておくと、

私が病気の猫を飼いつづけたのは、他人が思うように自分に慈悲心があるからではなく、その猫の存在によって自分の中に眠っている慈悲の気持ちが引き出されたからである。つまり逆に考えればその猫は自らが病むという犠牲を払って、他者に慈悲の心を与えてくれたということだ。

この二つの文章に語られている「救い」と「慈悲の気持ち」には氏ならではの、悲壮な現実と対峙し、乗り越えていくための思想が隠されているような気がするのですが、いかがでしょう。

写真としては、被災地を撮影したもののなかにたびたび現れる満月の印象が痛烈で、暗いものをあたりまえに暗く撮るという氏の技法によって写しとられた後半の数枚は、胸を抉られるような思いで凝視してしまいました。藤原氏が書行を行っている写真は、石田昌隆、戸澤祐司両氏が撮影しているのですが、コントラストの効いた色合いの作風は、藤原氏の写真とも一冊の本の中で見事な調和を見せつつ、その構図の中に藤原氏のそれとも異なる個性を主張していて、これもまた見所のひとつでしょう。

というわけで、書行の奇天烈さに惹かれて手にしてみるのはもちろん、氏の揺るぎない精神に裏打ちされた文章に酔うもよし、もちろんインド、被災地、そして書行のドキュメントを記録した写真の数々に驚くも吉、と一冊で何度でも愉しめるという点では、氏の新たな代表作にして最強の一冊といえるのではないでしょうか。オススメ、でしょう。