石塚桜子展『マイルーツ』―石塚桜子・島田荘司トークショー(1)

眼の調子がまだアレなんで、ミステリ本の感想は置いておくとして、――佐藤美術館で開催されている石塚桜子展『マイルーツ』の関連イベントとして先日開催された「ミステリー作家 島田荘司氏と画家によるトークイベント」を見てきたので、そのことについて書き留めておこうかと思ったものの、トークの内容を首尾良く録音できたので、テープ起こししたものをそのまま何回かに分けて掲載していくことにします。

トークショーの方は、美術館の会場である三階と四階で作品を前に、桜子さんが時に自作解説を加えつつ行われました。数ある御大の対談の中でも、絵という異分野の才人とのものは珍しいのではないかと。こうして聞き返してみると、天才はやはり違うな……とボンクラの自分などは感じ入るしかないのですが(爆)、対談は二人の出会いから始まり、創作における霊感や、御大の現在の感心など多岐に及びます。御大ファンのみならず、桜子さんのファンも愉しんでいただければ幸いです。

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島田「ええと、我々のそのなれそめというのをお話しいたしましょうかね」
石塚「そうですね」
島田「もともとは、私の仕事場というか、井の頭公園のそばに家があるんですけども、そこのチャイムを押してくださったんですよね。お母さんが」
石塚「私は緊張しました。いらっしゃらないということ前提に押してみたんです。そしたら先生が静かに、二時間後に吉祥寺のルノアールに来てくださいまして……それで慌てて。2001年7月28日です。夏の暑い時期。それで家に帰ってお化粧をし、シャツを着替え、とりあえずポートフォリオを持ち、それではじめてお目にかかりました。そんなわけで、もう、雲の上の人で……作品を三十年来のずっと読み続けていたファンのファンである母の本棚から読み始めて……二世代で愉しませていただいた、ファンでした。今でも大ファンです」
島田「ありがとうございます。あのときに化粧をしていなかったわけではないんですよね」
石塚「慌ててしてきたんです」
島田「あのときお父さまもいらしゃったんですか。(いました)ああ、そうですか。あのときは私も慌てていたんで、あのときに二時間後に誰か、編集者と会う約束があって……だから、そのときに合流していただこうと思いました。で、そのあと、ルノアールでお会いしましたが、お父様とお母様と、それから桜子さんがいらっしゃって、三人でね、画家の方はどなただろう、と。そしたら娘さんだと……そのときはすごく可愛くて……いや、今でも可愛いですよ(笑い)。それで、びっくりしました。こんな可愛い、こんな綺麗な人が絵をお描きになるのかと。それで画帳を……」
石塚「ポートフォリオですね」
島田「作品のコピーを見せていただきましたが、それで仰天しました。これはもう、素晴らしい作品でしたね。あのときは学生の時の作品がたくさんあったわけですよね。あのとき、感銘を受けた理由といたしましては、色々あるんですけど、そうですね……あのとき、学生としての作品群がヴァラエティに富んでいたということですね。そのあとビートルズのお話なんかもしましたけど、ビートルズの作品群をLP単位で聴いていきますと、どの曲もヴァラエティに富んでいて似た曲がないんですね。まあ、系統としてはこれはこの流れだろうという作品はあるけれども、「Yesterday」と「Michelle」はまったく違うんですね。でも同じ系統に入るということはあります。しかしLP単位で聴くともう、非常にヴァラエティに富んでいる。ですが、LP単位では固まっている。ビートルズの作品でしかない。誰の真似でもない、そして誰も真似ができないような、一種独特のポップ感覚のような――つまり誰にも受ける感覚があり、しかし誰にも真似できないようなユニークネスと奥深さがある、というような作品群でした。桜子さんの……造形大でしたよね?」
石塚「ええ、東京造形大」
島田「東京造形大時代の作品群もまさにそれで、パイプがあれば……具象だとおっしゃったんですよね?」
石塚「ええ」
島田「誰が見てもあれは抽象画のように見えるが、確かに具象なんですよね。顔つきもはっきりしており、書かれている人物はリアルに、何ていうかな……しっかり構成されており、テクスチャー……手触りが伝わってくるんですね。しかし描かれていた世界はある種、常識的な定型を壊しているんですね。そしてある種の高みに手が届いてるというようなものがあり、私は大変感動しました」
石塚「ありがとうございます」
島田「桜子さんの作品はどれもヴァラエティに富んでいるというようなものがありまして、私はその場でね、これは必ず――もちろんそのときはもう世に出ていらっしゃったんだが、さらに世の中で大きくなっていくことのお手伝いをしようと思いました」
石塚「ありがたいです」

島田「それからどのくらい経ったんでしたか」
石塚「十一年の流れがあります」
島田「ああ、今までね。その前に『透明人間の納屋』の表紙を悩んでいた時期がありましたですね」
石塚「2003年ですね」
島田「どのくらい経ったときかな。最初の出会いから」
石塚「二年後ですね」
島田「二年くらいあったんですか。ああ、そうでしたか。その間、私は桜子さんの作品を見せていただいてから忘れることはありませんでした。そうして、2年後に今は亡き宇山日出臣さんという名物編集者がいまして、ある意味、この人は天才でしたよ。何が天才かというと、彼が編集者として入り――もともと編集者として入ったのは、中井英夫さんの『虚無への供物』という、彼が非常に崇拝する作品があったんですけど、その作品が文庫に入っていなかったんですね。だからこの作品を文庫に入れてやろうと思って入りましたというふうに面接で言ったそうです。でもそのときは彼はフリーじゃなくて、三井物産に就職してたんですよね。でも上司が気に入らないということで一ヶ月で辞めたという、非常に変わり種でした。
そして中井英夫さんの本を首尾良く文庫にするんですけど、『虚無への供物』ですね、そのあとジュヴナイルシリーズというのを始めました。若者向けのミステリー、子供向けのミステリーですね。子供のうちから非常に密度の高いミステリーを読ませ、それでできることならその中からミステリーを書いてくれるような、新人を見つけたいというようなね、そういう価値のある企画でした。
その第一弾を私にやってくれというふうに言われまして、それで私は子供向けというような手をぬき方をしないで『透明人間の納屋』という、ある種渾身の力投をしまして、自分としては割と出来に自信があったんですが、この本に表紙をつけようとしたときに、誰が装幀に良いでしょうという話になりました。そして宇山さんが候補の挿絵画家を作品を持参してくれたんです。吉祥寺のルノアールという喫茶店でした。
で、それを見せていただいたんですが、悪いものではなかったですよ。良かったンですけれど、今ひとつ気に入らなかったんですね。で、そういうことならこれは、私が知っている天才的少女画家がいるから、彼女の絵を見てもらえませんかと言ったんですね。そしてその場で携帯電話をプッシュしまして、桜子さんに電話をしました。そしたらちょうどそのとき電話に出てくれて……それで駅がね、吉祥寺の隣の三鷹にお住まいでしたからすごく近いんですね。今すぐ絵のサンプルを持ってきてくれませんか、というふうに言ったんです。そうしたらすぐに飛んできてくれて、作品集を見てもらったんですけれども、私としては誰にも判る絵である反面、本当の意味で理解してもらえるかな、という不安はあったんですが、まあ、宇山さんは非常に良く理解してくれて、もう一秒ですね。『やりましょう。これでいきましょう』というふうに彼は、言ってくれました」
石塚「もう信じられなくて」
島田「あれは私も嬉しかったですね」
石塚「一瞬の出来事のようで……初めてお会いしてすごく大きな仕事なのに、そのときの宇山さんは『決まるときはこうして物事は決まります』、そう私に言って……背を向けられて、電車に乗っていかれました」
島田「そうなんですね。そしてそのときの作品は……あれですね」
石塚「『響振』ですね」
島田「『響振』という作品でしたね。で、この作品を表紙に使わせていただいて。とっても凝っていたんですよね。ケースに……ロックカバンに穴を開けて掌が見えている。そしてこの作品は幸運にも中国や台湾や韓国に出て行くことになりましたが、そのとき……まあ、だいたい他の作品は表紙は中国のものが使われるんですけど、この作品に関してはすべて桜子のさんのオリジナルで通してくださいましたね」
石塚「ええ、本当にありがたいことです」
島田「それだけね、この作品は特別であったし、アートとしての重みがあったんだと思うんですね。明らかに他を圧倒するというか、他とは違うだけのできあがり方があったんだと思うんですね」
石塚「この作品には思い出があるんですが、描いたのは大学三年の春頃でして、まだ、こう四年生の卒業制作を描く前に、不思議な気持ちで描いて……描き終わったあとにようやく私の元に届いてきたという、ちょっと不思議な……制作期間がありました」
島田「ちょっとそれは面白いですね。もう少し話していただけません?」
石塚「はい。大学三年の時に春ですね、ちょうど造形大では三年生の時にコースを決めるんですね。具象コース、抽象コース、版画コース……それで抽象コースは絵だけにとどまらずに、立体を作る人、インスタレーション……色々なそういうものもあったんですが、苦情コースだけは本当にタブロー……絵だけを描く人ですね。それか、もしくし写真をやってアートにする人、ビデオをアートにする人、そういう手段があったんですが、タブロー――平面を描く人は、まあ、私を含めて、総勢四分の一いるかいないか、だったんですね
。そのときに、皆さん、授業で単位を取らないと卒業できないので、えらく授業がいっぱい取られてたんです。私は一二年生の間にすべて詰め込んで、選択した具象コースを全うするためには、授業とかを一杯入れない方がいいと思ってたんで、それを省いて全部一年生のときに単位を取りましたんで、皆さんお友達は単位を取るためにアトリエはがらーんとしてしまいまして、ぽつーんとそこで一人で描いていたんです。時間がたっぷりあったんで、それはもうアトリエの電気をつけるのも忘れて描いていたんです。そしたらいきなり眼の前が明るくなって先生が入ってきて、『何だおまえ、一人でそこで描いてたのか』『はい、描いてました』って、そんなことがありました。そういうシチュエーションで描いていたんです。誰もいないアトリエで、ぽつーんと描いていて……しかもこのような絵ですから、不思議な体験をしました」
島田「インド旅行をされたりしたんですよね」
石塚「チベットに入ってすぐですね」
島田「ああ、チベットも行ったんですね。何かそういうものを感じるんですが、それよりも後ではないんですね、あの絵は」
石塚「旅行の後です」
島田「後ですか。じゃあ、影響があるわけですね」
石塚「ええ、ものすごく」
島田「そのへんで、何かありませんか」
石塚「あります。そうですね……日本画とも違うし、いわゆる洋画洋画した油絵でもない、それでいてありえない世界を描いたんですが、これは……あみだくじの上に自分が寝っ転がっているんですが、あみだくじというものは、行き着く先はぐねぐねぐねぐね選択をしないといけない、そういう人生に身を投じて、大いなるもの……私は神様とかはあんまり判らないんですけど、大いなるものは大きく手を挙げ、体にはチベット語で南無阿弥陀仏という意味が描かれ、そして桃源郷のように蝶々が瞬いて、そこに……あみだくじの中に落ち込んだ自分自身が大いなる運命と共鳴として手を挙げる。そして描いたのが『響振』と……そこに現れた梵字のマークは……陰陽のマークですけど、これは単に絵を盛り上げるための素材なんですが、その精神性がアジアの精神、アジア人の精神だと。そういう不思議な世界を描こうと思って、臨みました」
島田「うーん……いま、中国の問題がね、大きくなってきていますね。尖閣諸島問題があり、台湾の人達、それから沖縄の人達……中国が野心を持っているんじゃないかということを心配しているわけですが、何よりもそういう、もっとも深刻な事態がね、チベットには起こっているわけですよね」
石塚「ひどいことです。いまはもう」
島田「ダライ・ラマなんかはもうね……彼の講演を聴いたことがあるんですけど、明るいんですよね。必ず国に帰れる、そう信じていると言いますけど、彼の内側にある思いとかね、チベットで行われていることとかは大変なことだと思うんですね。まあ、それは別の機会にするとして……ここにある作品群が挿絵として使われたんですよね。『透明人間の納屋』にね」
石塚「こういうのがあったり」
島田「『透明人間の納屋』で桜子さんの絵を使わせていただこうと考えたときに、挿絵的なことをするのはやめようというふうに考えたんですね。ストーリーに沿って説明的な絵を描くという……たとえばお父さんとお母さんが卓袱台でご飯を食べているシーンというのがあったらそういうのを描くというようなことはやめようと、シンボライズされたような、あるいはそういう作品のそものが独立して価値を持っているような作品をこちらが選んで、もうストーリーにぶつけてやろうという思いがあったんですね。そしてそのことは成功したんじゃないかと思っているんですけど、いい雰囲気が出たと思うし、あのあと、描く人は大変だったんじゃないかと思いますけれどね。我々が非常に本気になりましたから。そして挿絵の出来も非常に水準の高いものだったわけですから、あとから描く人は通常の挿絵か何かは描きにくいというふうになったかもしれませんね。具体的にどれでしたっけ。使われたのは……」
石塚「あちらのが多いですね」
島田「この中には……」
石塚「この中にはないです」
島田「あれ、これなんかは」
石塚「ああ、ちょっと似てますけど、違います。はい、すいません」
島田「ほう……挿絵的に使われたのはありますか」
石塚「『響振』の隣の……『神経網」ですね」
島田「ちょっとあっちいきますか」
(移動)
島田「これは、日本画なんですってね」
石塚「ええ、日本画なんです。日本画の多分、一年生のときに二週間、日本画コースがあって、みんなでお花が配られて、さあ描きましょうと。お花……そう思った私は点々を描きました」
(会場笑い)
島田「花を描こうとは思わなかった?」
石塚「とてもそんな心境にはなれませんでした」
島田「それは何でですか?」
石塚「何かこう、クリエイティブなことと違うんじゃないかと。配られたお花をただ描くというのは何てつまらないことなんだと思いまして、そういうのは好きな方がやればいい。ただ私は……お花を描くのは私の流儀じゃない。私は私の日本画を描きたい。そう思って、非常に不思議な……こう、ウィルスのような、何かこう神経網っていうんですけど、それを夢中になって描きました」
島田「これはO-157とかね、SARSとか、そういうウィルスに似てますよね」
石塚「ええ、まったく知らずに、夢中になって描いてました」
島田「そうなんですよね。自然にそういうものを探り当ててしまったりして。それが偉大な意志みたいなものになったり……そういうことをね、桜子さんの例を見ていてよく思うんです。たとえばこれなんか(『アトミック――』を見ると、原発を思うわけです。原子力発電というものが行われている。しかも平和裡に行われている時代……しかしこれは大きな事故を起こしますよね。これはだいたい四年後くらいから甲状腺癌が増え、五年後くらいから白血病が増えるというふうに言われています。ですからあと三年くらいしてからね、大きなことが起こってくるかもしれないんですが、最近のちょっと黒っぽい……赤と黒っぽい作品……これは原発事故後のね、フクシマおよび東日本というようなイメージをね、私は持ってしまうんです。そういうものをあなたに描かせたような、そういう社会的なエネルギーというようなものがね、あなたのクリエイティヴ・マインドにプレッシャーをかけているんじゃないかというようなストーリーをね、持ってしまうんですね。まあ、あーディストっていうのは面白いもんだな、と思いますね」
石塚「不思議……ですね」

(続く)