美人薄命 / 深水 黎一郎

美人薄命 / 深水 黎一郎 傑作。帰りの電車の中で読了して、感動のあまり泣いてしまいました(苦笑)。本作もまた『ジークフリートの剣』と同様、謎によって物語を大きく牽引していく筋立てではありません。しかしそこは深水”ミステリ”。謎の意匠に格別なこだわりをみせる作者の、繊細にして大胆な仕掛けには完全にノックアウト。

あらすじはというと、今ドキの若者ボーイが、同級生だったかわいい娘っ子に会いたいがために弁当の宅配ボランティアでバイトをするうち、訳アリの老婆と知り合いになって、――という話……とこれだけでは全然ミステリではないわけですが、この「NHKの朝ドラでもイケるんじゃない? といっても『純と愛』の方じゃなくて、『梅ちゃん先生』みたいなノリで」みたいな今ドキの若者とボランティアの人たち、さらには老人たちのふれあいを描いた後半までの展開には謎の片鱗もうかがえず、また何か大きな反転の萌芽をひそめた雰囲気の欠片もありません。

そのいかにも『紋切り型』な展開は完全に普通小説のノリながら、この物語の外枠には旧字体で綴られたある女性の物語があり、ミステリ読者であれば朝ドラ的ストーリーとこの物語との連関を頭のなかであれこれと思い描くに違いありません。

しかしそれこそが本作の罠でもあり、話もほぼ終わりかけたあたりで、ある出来事が発生し、物語は大きく転換します。しかしそれでもその出来事の後、ボーイに訪れるある事柄はまだNHK朝ドラ的な風格の中では十二分に想定内ながら、その後に「探偵」からある人物の属性が明かされると同時に、本作の趣向が詳らかにされる展開が秀逸です。ここでは読者の印象を操作する小説の技法が「探偵」の口から説明されるのですが、それがそのまま本作の仕掛けをトレースしているという虚実とメタの二重構造が素晴らしい。

「探偵」によってその人物の生涯に隠された「真相」が明かされ、それらがすべて虚構であったと「証明」されても、しかし「紋切り型」にしてNHK朝ドラ的な書き割りの中で展開されていた物語の強度と呪縛は相当なもので、ほとんどの読者はこの「真相」を頭の中では了解できたとしても、心の中ではそれを受け入れることができないのではないでしょうか、――というか、まさに自分がそうだったわけですが(爆)。

従来の現代本格であれば、おそらく物語はこの「探偵」の真相開示によって幕となっていたはずで、本作の優れているところは、ここから本格ミステリの「紋切り型」であるどんでん返しを用いて、「探偵の敗北」を華麗に演出し、もう一段上の高みへと物語を昇華させたところでしょう。

主人公が裏取りのために訪れたある場所で自らの推理を確信するにいたり、先ほど探偵の推理よって覆された情景が再び形をかえて読者の頭の中に甦る、――この企みこそは本作の最大の演出であり、本格ミステリの真相開示が常にある種の幻想の否定によって成立していたのに比較すると、その質感は大きく異なります。

「……一読者の立場から言わせてもらうと、あまりにも複雑で、読者が気づくよすががないようなものは、あまり面白くないのよね(p235)」という「探偵」の台詞が、最後の最後、主人公の発見によって再び反転すると同時にその裏づけにもなりうる趣向や、「俗に言うオヤジギャグが疎まれるのは、それがそういう努力を一切していない、一方的に押し付けてくるギャグだからです(p239)」と「探偵」に語らせておきながら、本作の章題がいずれもアレであるところなど、作者らしい遊び心を重ねた仕掛けも最高です。

一見すると大枠の趣向はシンプルながら、それは作者の試みがそれだけ大胆であることの証左でもあるわけで、細やかな逸話を織りまぜながらNHK朝ドラ的世界を構築し、謎の牽引力なくしても物語を一気に読ませてしまう小説技巧も相当なもので、そのいかにも普通さを装った擬態ぶりは『ジークフリートの剣』以上。道尾秀介とはまた違ったアプローチで本格ミステリの技巧を精力的に使いこなし、新時代の小説のかたちを構築しようする作者はこの後どこに向かっていくのか、――昭和なオヤジギャグと現代フウの言葉遣いのハイブリットもますます冴え渡る深水氏、これからも目が離せません。