名探偵の証明 / 市川 哲也

名探偵の証明 / 市川 哲也『こんなモン鮎川賞じゃねえッ!』、『こいつを受賞作にした選考委員は氏ねやクソが』みたいな批判殺到ではないかと推察される本作(苦笑)、――読んでいる間は正直自分もそんな気持ちでイッパイだったのですが、読了したのち、少し時間をおいて頭を冷やしたあとこの物語について再考してみたらちょっとだけ考えが変わりました。駄作というのはアンマリで、せいぜいが問題作、――もちろんこうした評価は「鮎川賞受賞作」という条件をつけではありますが。

物語は、かつて一世を風靡した昭和の名探偵が、再びある依頼を受けて殺人事件が起きそうな館へと召喚される。平成のキャピキャピギャルの名探偵が待ち受けていた館でホンモノの殺人が発生し、昭和の名探偵は事件に挑むのだが、……という話。

円居挽を通過した現代本格読みであれば、この設定から平成のアイドル探偵と昭和名探偵との華麗な推理合戦が見られるのかと大期待してしまうわけですが、物語は時計の針を完全に逆戻しした意想外な展開で進んでいきます。そもそも序盤に見られる探偵の名推理、――とはいっても、孤島でおトイレ臭いトリックや謎解きが開陳されるという、新本格以前の脱力推理が開陳されたあと、「残念でしたア。全部夢だったんだよーン!」という夢オチリスペクトなどんでん返しを前半に配して、最先端の現代本格を期待していたマニアの魂を抜きさるというショック療法を用いて、読むものの頭を強制リセットしてしまう荒技にまず吃驚。

そしていよいよ本番の館モンが展開されていくわけですが、老醜を晒すまいといきみすぎな昭和探偵がアイドル探偵にメラメラとライバル意識をたぎらせるのかと思いきや「蜜柑は敵でもライバルでもない。仲間なんだ」と、昨今のギャルっぽく「みんな友達だよ」のほんわか発言をブチカマすというテイタラク。結局、この事件での敗北をきっかけに探偵は引退を決意するわけですが、しかし――という後半に語られる、探偵復活を遂げる”密室”事件の小粒さと真相のアレっぷりもかなりの問題ながら、昭和探偵が敗北した事件において「もしかしてコイツが犯人だったんじゃないの?」と予想していた通りの真相が明かされる後半は確かにこれまた腰砕け。しかし少し冷静にこの作品の構造と趣向を俯瞰してみると、作者の周到な戦略が見えてくるかもしれないカモしれないカモ、よ? ……ということを以下に書いてみます。

そもそも本作は、『名探偵の証明』という、作中にも出てくる本のタイトル通り、探偵の一人称で物語が進んでいきます。つまり本格ミステリというよりは、ハードボイルドとしての趣が強い。しかしそこに書かれている探偵は、ハードボイルド型というよりは、本格ミステリのソレであるという転倒が本作を問題作たらしめているわけですが、かりに本作がこうした名探偵の活躍を描いた本格ミステリの定石通りにワトソンの一人称だったら、――と考えてみるとどうでしょう。以下、文字反転。

“探偵”の物語という趣向をくみ取って、本作を本格ミステリとして読めば、最後に明かされる真相は「ワトソンの復讐」であるともいえます。”探偵”の物語でありながら、謎解きの帰結として明かされる構図が”ワトソン”の物語であったという仕掛けはなかなかに興味深いところではあるのですが、結局、本作はワトソンとともに探偵に寄り添っていたもう一人の人物の裏切りを明かすことで、再び探偵の物語へと転じて苦い結末を迎えることになります。本丸の事件の構図に着目すれば、本作は探偵やワトソンといった本格ミステリの様式に通暁した読者をターゲットされていることが明らかながら、それにしては個々の事件に付与されたおトイレ臭いトリックや謎解きの定番にすぎる流れなど、どうにもぎこちない部分がマニアから槍玉に挙げられるであろうことは容易に推察できます。

たとえば語りにしても、最後の最後に、操りの首謀者ともいえる人物の語りをエピローグ風に添えて、ハードボイルドを擬態した本格ミステリという様式を崩してしまうのであれば、あえてワトソンの一人称という本格ミステリの様式を遵守して、ワトソンの復讐という事件の構図を明らかにしたほうが、もっとこの事件の動機について深く掘り下げることができたのでは、とも思えるわけですが、――おそらく作者にしてみれば「でもでもですよ。ここでワトソンを語りにしちゃったら次が書けないじゃないですかぁ。自作は蜜柑を主人公にするか、それとも屋敷が大活躍していた過去の事件を扱うかについては担当編集者さんとじっくり話をしてみるつもりですけどね、エヘヘ」なんて、本作を鮎川賞に投じた時点で次作の構想を考えていた作者に反論されるとであろうことは容易に想像ができ、また密室と自殺というモチーフを個々の事件に添えられた謎解きの中で変奏していくにしても、もう少し新味のある見せ方もあったのでは、――という不満についても、「またまたぁ。時代はね、分業化なんですよ。僕はラノベの読者にも配慮したキャラ優先の作風でいくんで、緻密なロジックとかそういう難しいのが読みたいんだったら、どうぞ青崎有吾先輩の新作を楽しみに待っていてくださいませませ」と作者に嗤われてしまうのが関の山。ここは黙って頭を垂れたまま、鮎川賞の変化を受け入れるか、それとも本作を東京創元社からロートルに向けられた絶縁状と見るか、……まあ、自分がどちらかというのはあえてノーコメントということで(爆)。

あとこれは作品とはマッタク関係ことではあるのですが、電子版には選評がついていないというのはいかがなものでしょう。出版社の「ホントーのことをいうとねぇ、紙の本を買ってもらいたいんだよ!」という下心が見え隠れするこうした”差別化”にはチと疑問を感じる次第です。以上、老眼を切実な問題としているロートルのボヤキでした。