永遠の殺人者 おんぶ探偵・城沢薫の手日記 / 小島正樹

永遠の殺人者 おんぶ探偵・城沢薫の手日記 / 小島正樹ジャケ帯の惹句が「”やりすぎミステリー”の旗手が贈る100パーセントの推理小説!」、「難事件に挑むのは、孫にんおぶされたおばあちゃん! 名刑事の未亡人・城沢薫の”位牌推理法が炸裂する!?」で、ジャケがこれ。さらにはダメ押しとばかりにサブタイトルが「おんぶ探偵・城沢薫の手日記」とあっては、この本を手に取った読者のほとんどは、本作を軽妙なユーモアミステリーと誤解してしまうかと推察されるものの、さにあらず。やりすぎはやりすぎでも、今回は過去現在を重ねた悲哀溢れる事件の構図と、トリックに残された痕跡から隠された人間ドラマを描きだすという、本格ミステリならではの人間描写が光る佳品であります。

物語は、地獄三景に見立てた奇怪な連続殺人事件に、名刑事の未亡人が挑む、――という結構で、連続殺人事件を追いかけていくうちに、過去の凄惨な事件との関連が見出されていく展開は期待通り。事件としては、やはり冒頭に提示される手首のない死体の謎が秀逸で、目撃証言と死亡推定時刻との齟齬、さらには切断された手首の不可解な”アリバイ”など、大密室事件こそ登場しないものの、ささやかな謎を積み重ねていくことで、アリバイや密室を伴った不可解な事象の集積体へと昇華させていく事件の作り込みが素晴らしい。

小島ミステリを形容するときに使われる”やりすぎ”という言葉からは、御大の「巨人の家」みたいなトンデモない奇想幻想の連打をイメージしてしまうのですが、本作でまず最初に示される事件の様態はそうした大伽藍に比較すればこじんまりとしすぎている印象があります。とはいえ、本作の優れているところは、そうした死体の様態や不可能状況の小粒さが同時に真犯人の心理や苦悩をも暗示しているところだと思うのですがいかがでしょう。

手首のない死体のほか、人形焼きやお馴染みの串刺し死体など、これまた懐かし風味さえ感じさせる定番のコロシが連打されるわけですが、しかし見立てのメッセージまで添えられた猟奇死体の様態に反して、事件の捜査は淡々と進んでいきます。これにはギャーギャー騒ぎ立てる探偵やワトソンといったキャラが不在ということもあるのですが、この淡々とした展開もまた真犯人像を暗示していることが最後の推理で明らかにされます。

上にも述べた通り、本作に描かれる事件は地獄三景に見立てた、手首のない死体やら人形の首、串刺し死体など、往年の探偵小説を彷彿とさせるド派手な趣向をいくつも見せながら、それらの構成するトリックはかなり小粒。この点に関して、たとえば作者の初期作を知っている読者であれば物足りなさを感じるやもしれません。しかし本作、個人的には、将来、作者の代表作、あるいは転換点を示す作品として評価されるのではないという気がします。

特に本作では過去の事件を前半で明らかにしつつ、真犯人としてある事件にフォーカスした捜査が勧められていくのですが、本格ミステリを読み慣れた読者であればこれが作者の誤導であることは容易に察しがつくことでしょう。推理の場面では、まず現在の連続殺人事件のトリックが暴かれ、そのあと、探偵たちが犯人の自首を待つかたちでいったん小休止をはさみ、そのあとすぐに今まで犯人とされてきた人物とは異なる犯人とともに、過去の事件にまつわる悲話が語られていきます。

そしてこの過去の事件の真相が真犯人の口から明かされていくにつれ、探偵が暴いた現在の事件に用いられたトリックや誤導の数々が狡知に長けた悪人の手によるものでは決してない、――それらはすべて一人の弱者が恐ろしい天啓によって過去の事件に用いた着想を繰り返していたに過ぎないことが明かされます。

個人的に本作でもっとも心を打たれたのが、この過去の事件と現在の事件の着想の符号性で、仕掛けによって、――というよりはトリックによって人間心理を描ききった作品という点で、『龍の寺の晒し首』の系譜にも連なるものと理解することも可能かと思います。とはいえ『龍の寺の晒し首』がやや懐かし風味の探偵小説の風格を濫用したために、このあたりの焦点がぼやけてしまったのに比較すると、本作では謎解きのシーンにおいて、ヴァンダインさながらに探偵側の人間が心理ゲームを用いて犯人の自白を促そうとするシーンなどを交えて、犯人の隠された内面を読者に伝えようと趣向を凝らしてあるところが進化形。

大袈裟なユーモアこそありませんが、個性的な登場人物だけでなく、犯人の心理と隠された人間ドラマを、事件に付与されたトリックと推理によって見事に活写した作品として、本作は、作者の”やりすぎミステリー”の中ではもっとも印象的にキマった一冊といえるのではないでしょうか。オススメです。