悠木まどかは神かもしれない / 竹内 雄紀

悠木まどかは神かもしれない / 竹内 雄紀えーっと……(爆)。ジャケ裏には「青春前夜の胸キュンおバカミステリの大大大傑作」とあるものの、自分のようなミステリ読みとしてはいったいどうやって愉しめば良かったのか、読了後も頭を抱えてしまうという一冊でした。自分は「バカミス」だと思って手に取ったのですが、よくよく見れば、このジャケ裏のあらすじ説明にも”おバカミステリ”とあるわけで”お”を見逃した自らの”おバカ”加減を嗤うしかありません。

あらすじはというと、学習塾に通うヒロインを巡る”謎”に、三バカトリオのボクちんたちがハンバーガーショップでダベりながら挑む、――というものながら、そもそもこれまたジャケ裏の文章からの引用になるわけですが、「悠木まどかには<謎>があった」といってもミステリ読みが構えてしまうような大きな謎でも、また日常の謎というわけでもない、チンケなものゆえ、謎によって物語を牽引していく作品ではないところは完全に取り扱い注意。

このヒロインの謎に挑む前に、弁当消失事件というのがあって、弁当を盗んだのは誰か、という”謎”を巡ってボクちんたちが色々と推理を巡らせてみるものの、結局この真相も精緻な推理によって開陳されるでもなく、アッサリと当事者からの自白によって幕となるシメ方には観音菩薩でさえも激おこぷんぷん丸になること必至というアレっぷり。とはいえ、ミステリにおける事件を謎として、「犯人」、「被害者」、「探偵」といった役割があり、「探偵」が推理によってフーダニットのメインである「犯人」を突き止めたのち、「犯人」の自白を促すという本格ミステリでは定石の結構において、この弁当消失事件では自白を端緒とした奇妙な転倒がはかられています。この「犯人」ではない人物の自白によって真相が語られるという構図はまあ、現代本格として評価してもいいのかもしれないかもしれない、……のカモしれません。

そしてこの弁当消失事件によって、本作における謎解きの立ち位置が明かされたあと、いよいよ本丸となるヒロインの謎となるわけですが、この謎というのが、ヒロインがある科目のテストを受けないで帰宅してしまうというもの。本格ミステリにおける日常の謎というものが、謎を見出すことによって日常の違和が明かされていくものであるのに比較すると、本作の場合、ヒロインの謎が登場人物たちによって見出されたあとも、彼らの日常が変化するわけでもなく、相も変わらず塾に通いながらヘンテコリンなバーガー屋でダベっているばかり。で、一応、この謎について少年探偵団よろしく様々な推理を開陳して推理合戦ならぬワイガヤをバーガー屋で繰り広げて行くのですが、結局、いずれの推理も決め手には到らず、ついには語り手のボクが実行動によってその真相を解き明かしていく、――という展開はハードボイルドと呼ぶにしても無理がありすぎ(爆)。

そもそも本作の登場人物たち、――といっても彼らは小学生だから仕方がないにしても、作者自身がミステリにおける「謎」と「事件」の意味合いをシッカリと把握しきれていないところがかなりアレで、上のヒロインにまつわる謎について、ボクちんの一人は、ある推理が間違っていることが判明したのち、以下のような台詞を嘯いています。

「事件はふりだしに戻る、ですか?」

そもそもヒロインが理科と社会のテストを受けないで帰るというのが「事件」なのかどうか、――「いやいや、登場人物は小学生ですよ。子供時代ってほら、何でもかんでも事件だ事件だ、って大騒ぎして盛り上がったじゃないですか」なんて作者からの弁明が聞こえてきそうなんですけど、ミステリと銘打つからには、やはりここではこの「謎」から、読者である大人たちも納得しえるような「事件」が発生するなり、あるいは日常の謎のごとく、その「謎」の背後に「事件」が進行していたことが明かされるという展開にしてもらいたかったというのが正直なところ、――というか、本作を手に取ったミステリ読みの方でこのあたりにブーたれずに読み切ることができた人っているんでしょうか? 

もっとも解説を書いているのが角田光代ですから、そのあたりは推して知るべし、ということなのかもしれず、本作ではこの解説までを実編とすれば、なかなか示唆に富んだ「仕掛け」を堪能できるところは面白い。この解説で角田は、塾通いをする「冴えない男の子」である登場人物たちが「無駄」ということを知らない、と指摘しています。そして「そんな彼らの唯一の無駄が、待ってるバーガーでの時間である」といい、この子供時代の”無駄”な時間は、「有限で、いつかかならず失われていくものだ」。この残酷な事実から、角田は「さて、この場所がなくなったとき、この子たちはどうなるのだろう」、――これこそがこの「小説が巧妙に隠している」問いであるという。

もっともここではこの角田の指摘が正しいかどうかは置いておくとして、注目すべきは、角田自身にとってこの「無駄」が読書だったという告白に注目でしょうか。穿った見方をすれば、本作を読み通すことは確かに無駄だったかもしれないけれど、まだ純真無垢だった子供時代を思い出してご覧。ありきたりの日常から逃れるためにはそんな無駄も必要だったでショ? ――と語りかけているような気がしないでもないでも、……ってここまで書いてて自分でも相当に無理があると感じられたのでこれくらいにしておきます(苦笑)。

“お”バカミステリをバカミスとミスリードさせて買わせるという鬼畜商法の是非はおいとくとして、そもそもこれをミステリとして読ませるには相当に無理があるし、かといって、アニメや漫画で日頃から「有限で、いつかかならず失われていく」「無駄」を満喫しているヤングの方々が本作をライトノベルとして愉しめるのかどうか、――本作の作者は自分と同じ昭和世代で、実はかなり無理してライトノベルらしさを出そうとして図らずも壮大にスベっているのでは、なんて昭和生まれのロートルである自分は感じてしまうのですが、いかがでしょう。

スベりまくった小学生たちの会話については「ようしッ! ボクちん、こうなったら平成の橋本治を目指しちゃうぞッ!」と作者がトチ狂ったとしか思えないほどに痛々しく、そもそも「三バカトリオ」という言葉からして昭和臭が半端ないし、「アーメン、ラーメン、冷やソーメン」だの「三年ッ、B組~ッ!」「金~八~先~生~っ」なんていうのが堂々と会話や一人語りに紛れ込んでいることからして作者のアレっぷりは相当なもの。

次作がハルキ文庫から刊行予定って、――いったいどういう人脈なんだと、むしろ作中の謎以上に、作者自身の謎の方に関心が向いてしまうという本作、バーガーといった「食に対するこだわり」と昭和臭溢れる駄洒落が鏤められているとはいえ、これをダメミスと「擁護」するのは流石の自分も”どうしようもアイキャンノット”という次第で、ミステリ読みの方がネタにするにしてもかなり無理があるゆえ、童心に返って「有限で、いつかかならず失われていく」無駄を愉しみたいという好事家のみにオススメ、ということで。「年始でバタバタしているからそんな無駄を愉しんでいる暇なんかねーよ」というリーマンの方であれば、横目で見ながらもスルーするのが吉、でしょう。