前回の続きです。
島田: ――そしてホームズというものが登場しますが、このときのホームズのシリーズというのは、冒険小説であり、格闘技小説であり、ボクシング小説でもあり、それから一応このころ『ジキルとハイド』っていう、SFホラーが大ヒットしていた時期にあたるんですね。で、これの影響じゃないかと思われる『這う人』なんていう作品もあります。ですから変身ホラー譚なんてものも含んでいる。でも探偵といってもね、その後現れてくるようなインドア指向の閉鎖空間で書斎派探偵として論理的にものを解決するという人では決してないんですね。ですからホームズはむしろこの特徴から考えると、後にアメリカ西海岸に現れるフィリップ・マーロウとかっていう物語の直系であるようにも思えるんです。
今ホームズのドラマはよくハリウッドの映画になりますね。これはインドア指向に徹底していなくて、野山を駆け回るような、そしてボクシングの腕前を披露するような、そういう活劇譚でもあるというところがハリウッドの映画をつくらせる理由になっているように、私は思っているんですね。ともかくホームズの時代が過ぎまして、次に現れてくるのが、同じイギリス人のポアロですよね。これはアガサ・クリスティという女性の作家によって書かれます。これを見ても判るように最初の作品はアメリカ人、次の作家、その次の作家もイギリス人です。つまり大西洋をはさんでアメリカとイギリス、アングロサクソンが覇を競い合うようにして、――と言っていいかな、探偵小説を発展させてきたんです。
で、ポアロというのは、エルキュール・ポアロといいますが、これ皮肉なんですね。エルキュールというのは、どういう意味かといいますと、ヘラクレスという意味なんです。スペルは同じなんですね。つまり肉体派で、活劇主義的人物であるという名前をつけておいて、実は運動音痴で、1メートル62といわれています。ですから今の女の子にはあまり人気がないかもしれませんですね。そして髭をピっとさせて大変な洒落男なんだが、小男で、皮肉屋でそして運動音痴で、そういうまあ、人間。しかもね、訛りがあるといわれています。彼はベルギー人ですから、小粋なイギリス流の英語を喋らないということになっています。それで被疑者たちが、上流階級の被疑者たちがうかつに情報を漏らしてしまうというですね、それを目ざとく収集していく。
ポアロのシリーズの骨子をなすものはね、女性世界のルールのように思えるんですよ。例えば田舎で事件が起こる。そのときに動機はどうのを含めて女性世界って噂話を収集し、そして男性たちをよく観察します。その中でも特に女性たち、恋愛関係にある夫婦や恋人たちを見て、この女性が本気であるか、計算で好きな演技をしているかな、みたいことを女性たちは気にするし、見抜くじゃないですか。そういった細かなことがポアロものを支えているともいえるわけですね。もちろんそれだけじゃないですが、これは後にFBIなどが採用するプロファイリングの技術に通じるものでもあるわけです。つまり活劇を否定して、プロファイリングの方に向かい、そして純粋に論理思考でもって犯人を特定していく。こういうやり方が後に、アメリカのヴァン・ダインの世界に繋がっていくわけです。
で、ヴァン・ダインという人は、二十則という有名なものを書きます。これには全部書いてはいないんですけど、彼の作品などから推して一番面白いミステリの有り様はこういうものだといって提出している形式があるわけです。これが怪しげな館に怪しげな住人たちが最初から登場しており、そしてそれらの情報がフェアに読者に提供され、で、名探偵は必ず外来、外からやってきて、そしてすでに読者に提供開示されている材料だけを用いて、そしてその読者たちの予想を、あるいは推理を上回る形で意外な犯人を指摘する、こういう一つの図式ですね。方程式のようなもの。こういうものが一番面白いんだという考え方を提示し、自分でも傑作を描いてみせます。
つまりこれは彼が2000冊も読んだといわれていますが、自分の読書体験の中からこれが一番面白い構造のミステリだという彼の選択眼が示されているわけですね。これは明らかにホームズではなくてポアロから始まった流れではないかと思います。インドア指向の流れですね。これを受け入れる形で、実は本人たちは否定しているんです。エラリー・クイーン、ディクスン・カーといった人たちはこれの影響なんかないといっているんですが、後世の我々の目からは明らかにそのやり方を受け入れて非常に効率よく傑作を描いているように見えます。これが後に綾辻さんなんかがやる館ものという流れになっていくわけですけれどもね。こうして黄金時代を非常に速やかに築かれていくんです。
しかしこのように閉鎖的な空間、怪しい建物、怪しげな住民たち、その情報を早く開示する、と決めていくということは、材料を制限したとも取れるわけです。で、これは大変皮肉な結果で、これだけの材料を使えば非常に高効率に、つまり非常に高い補止まりで傑作が現れてきますが、材料が制限されてしまったわけですから、黄金時代が築かれるが、黄金時代以降の作家たちは、先人の達成を乗り越えにくくなっているという皮肉な現象が現れるわけです。そこへハリウッドという、圧倒的なエンターテイメントが登場してくる。そして台頭し、力を持ってくる。こういものに負けるようにして、黄金時代の翌日から少しずつ衰退の歩みを続けていく。そういう形になっていくわけですね。ですからヴァン・ダイン以降、エラリー・クイーンですね、頂上は。彼によって黄金時代は現れますが、エラリー・クイーン以降、ミステリーは少しずつ衰退していく。そういうかたちになってきます。そして消えて、……まあ、ほとんど消えてしまうんですが、これを消滅から救ったのは、アジアで唯一の民族である日本人なんですね。
これは非常に面白いことですが、アジアでこれほどアングロサクソンたちの風景に接近して、創作に頑張ってきた民族というのはいないんです。みんな、だいたい、中国なんていうのはホームズしか知らなかったんです。日本の新本格が入ってくるまではもうほとんど知られていませんでした。これは儒教という問題もあります。まあ、そのへんを話すと長くなってしまいますが、まあともかく、日本はポーから歩調を合わせるようにして、このアングロサクソンたちの仕事に密着してやってきているわけです。しかし残念なことに、日本では科学革命が起こっていなかったんですね。だから非常に厳しい言い方をすれば、本格のミステリーが出発できる状況は整っていなかったという、言い方もできるかもしれません。
そこで乱歩さんが何をしたかというと、江戸流の外連ですね、見世物小屋の趣味を作品に持ち込んでいく。そうして多くの読者を得るんです。ですが、生首、一寸法師などがたくさん出てきて、推理の要素が乏しい、つまり甲賀三郎などが言った理知的な要素が乏しいということで、日本の純文指向からは激しく軽蔑されるという形になっていくんですね。そうして簡単にいうと、その軽蔑を払拭して颯爽と現れたのが松本清張さんということになります。しかし清張さんは本格とは何であるか、あるいはどういう条件を持ったものが本格であるか、なんていうことを考えることはなかったと思います。清張さんは扶養家族が八人もいた。その人たちを無事に食べさせるには本を書いても必ずヒットさせないといけなかった。そのために江戸川乱歩的な小説がよかろうという判断で書き始める。もちろんコナン・ドイルは好きだったんですけどね。好きなんですけど、そんなに細かく考えていたわけではないんです。彼にあったものは明らかに自然主義文学というものと、それから時代小説としての体質、であったと思います。自然主義というのはね、何であるか、これはちょっと戻って……退屈に感じるかもしれませんが、もう少しだけ。
水谷: 簡単にお願いします(苦笑)。
島田: それは難しい。いや、話し出したら止まらない。いや、どうしてもこういう話の方が馴染んじゃうんで、私はね。占星術、恋愛とか言われるとちょっとピンとこないんですけど、まあともかく、もうちょっと我慢してください(続く)。