第二回島田荘司推理小説賞レポート in 台北 (7)

第二回島田荘司推理小説賞レポート in 台北 (6)」の続きです。前回は、陳浩基氏の『遺忘・刑警』に関する話でしたが、今回は冷言氏の『反向演化』と陳嘉振氏の『設計殺人』についての御大の感想から始まり、自分に影響を与えた作品、作者についてや、テーマに関する話へと続きます。

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今お話を聞いていて、みなさんだいたい一年とかくらいでつくっているんですが、冷言さん、物語三年かかっているというということを聞きました。それで驚いたんですけれども、今、お話を聞いて、それで問題点がわかりました(会場笑)。三年もかけるべきではありませんでしたね。特に川口浩探検隊は見るべきではありませんでしたね(会場爆笑)。もちろん見ていけないわけではないんですが、あんなの一本も見ればたくさんだと思います。

あるいは洞窟の中に未開人の野蛮な世界、あるいは怖い世界が構築されているかもしれないというストーリー先行固定型の、典型的パターンの物語だと思います。ヨーロッパから時の文化人がやってきて、そうして洞窟の中に住み着くようにならざるをえなかったとしたならば、彼らはまだデモクラシーは知りませんでしたが、ヒエラルヒー構造の高度に構築された世界をすでに持っていた、そういう経験を持っていたわけですね。彼らは知性が激しく後退するような理由を持っていたわけではないのですから、自然に、もう少し彼らの暮らす社会をそちらに近づけていくんではないかな、ということを考えました。私たちはそう考えたときにね、さらにさらに凄いミステリーが現れる余地があったと、いうふうに個人的に考えたんです、あのシチュエーションでは、ですね。そうすれば素晴らしい傑作になったんじゃはないかな、ということ、私のイメージがね、こう勝手に完全に暴走してしまったところがあり、残念に思いました。

『設計殺人』も、私はある意味、大変な好きな作品です。と申しますのは、これは物語として面白い、あるいはラヴ・ロマンスとして、あるいはそうだな、冒険的恋愛小説として、大変魅力がある世界だと思うんです。これは彼に昨日聞いてみてびっくりしたんですが、彼、ヒッチコックを知らないわけです。ヒッチコック映画というものを知らない。しかし、ヒッチコック・ムーヴィーの世界にとても似ているんですね。黄色いネクタイなんかが現れてくれば、彼の晩年の、あまり傑作ではないんですが、『フレンジー』なんて作品を連想します。まあ、ヒッチコックの話をするとまた長くなってしまうんで、やめておきますけれども、ともかくあの作品が映像化されたらみんなを喜ばせる、特に女性を大変喜ばせる良い作品になるんではないかと感じました。

このあと、「島田先生が一番影響を受けた作品、そして影響を与えた作者は誰でしょうか」という質問に対する御大の答えは以下の通り。

あー、適当な作品があると思うんですが、ちょっと今忘れました。あの、昨日問題を聞いていれば考える時間があったんですが……思い出しておく時間があったんですが。やはりね、傑作、本格のミステリーに限らないことかもしれないが、傑作として世に残っている条件は何かって考えると、ミステリーの歴史ではいろいろな変革が起こっています。で、その先頭に位置する作品ですね、新しいムーヴメントの先頭に位置する作品、こういうものが名作として残るんです。

たとえばホームズとワトソン型の冒険物語としての小説、本格のミステリーも初期においては冒険小説のひとつだったわけですが、このパターンの一つとしてホームズ型の小説が残っていますよね。それから鉄道ミステリーというジャンルの先頭に位置するクロフツの『樽』とか、ゲーム型、知的ゲーム型本格の開始点にあるヴァン・ダインの作品、あとは何があるかな、ちょっとすぐ思い出せませんが、そういう作品にやはり影響を受けたというか、普通の答えしか出てきませんね、今はね。

しかし今もう私は作家としてスタートしてからずいぶん長い時間が経ちます。もう三十年近い時間が経つ……三十年経ったのかな、そういう時間が経っています。したがって初期のころ、影響を受けた作品というのはね、忘れてしまっています。しかしこうやって新人の作品を多く読むようになりました。それは多くの新人賞の選考に関わってきたからですね。むしろ今は新人のフレッシュな作品の持つ刺激の方が私に多くの影響を与えているように思います。

続いて、「自作の中で読者に伝えたいことや、作品のテーマ」について訊かれた御大は、

これがまた大変難しい問題なんですね。えっと……もうちょっと軽い話をしたんですけど、ちょうど『涙流れるままに』という作品が上梓されました。これに関してなどは、大変強い主張を持っていました。それは冤罪問題ということですね。日本の社会っていうのは、たくさんの問題点を持っていますが、いま東日本大震災、それから原発の問題等にどこかで繋がるものとしてね、死刑の問題、そして冤罪の問題はやはりあると思うんです。

今日本では死刑確定者が百人を超えてしまいましたが、私が真剣に死刑廃止という運動をしていた、主張していたころ、死刑確定者は五十数人でした。そしてこの五十人、簡単に五十人といいますが、この五十人の中の十人は自分は殺していないと主張していました。私が調べる限りでは、この主張が正しい可能性が十分にありました。二十パーセントも誤差が出ては、制度上やむをえない誤差、過ちという数字ではないと思います。

もう八年も前になりますが、池田小事件という恐ろしい事件がありました。これが小学校に乱入した犯人が、白昼、大勢の目撃者の元で八人の子供を殺したという事件でした。彼は何度も自殺未遂を繰り返してうまく死ねなくて、大変な頭痛持ちになっていました。そして確実な死を手に入れるために死刑をもらおうとして、白昼、目撃者の元で弱者を八人も殺した。一人二人では無期懲役になる危険があるので八人を殺したということを、弁護士は認めています。

これはある恐ろしい謎解き――を導きます。どういうことかといいますと、死刑がなければ、死刑制度がなければ、あの事件は起こっていないということです。彼は自分の死刑を早めてもらうために裁判所で非常に行儀を悪くしたり、挑発的な発言を繰り返したりしました。非常な不行儀を繰り返しました。量刑側はその挑発に軽々と乗って順番を狂わせてまで、彼を早々と殺してあげました。するとたくさんの追随者が現れて、まったく何の恨みもない人間を、死刑をもらうために複数を殺すという事件がたくさん起こるようになっています。もちろんこれらの被疑者の言うことをそのまま信じることはできませんが、かなりの確率で、これらが本当のことを言っていると信じる理由があります。

つい一週間ほど前も、東京の渋谷で四十人ほど入っているライブハウスでガソリンをまいて火をつけそうになった犯人がいました。これも大勢を殺して死刑になりたかったと言っています。しかしマスコミの報道ではこういうことは一切隠されています。その理由はあまり正確に報道してしまうと、死刑という制度が危うくなってしまうからだと思います。

このように多くの問題点が噴出しており、しかも冤罪者の数が異常に多い、こういったことに眼をつむってまでも、何がなんでも死刑を存置しておかなければいけないという日本人の意識というものには多くの問題があると思います。というよりも、アジアの儒教社会、いわゆる儒教の誤解をしている社会というふうにいうべきかもしれませんが、様々な問題点を象徴的に表していると考えています。この問題がどこかでこの原発の問題や、東日本大震災の復旧の遅れ等に繋がっているように考えています。

これでトーク・ショーは終わりで、このあとは御大への質問タイム。だいたい定番の質問ばかりだったんですが、次回は一応記録という意味でこの質疑応答についてまとめみたいと思います。こうご期待。

第二回島田荘司推理小説賞レポート in 台北(8)」に続く。