蜘蛛と蝶 / 大石 圭

偏愛。今までの大石圭のすべてが凝縮された記念碑的な作品といってもいいのではないでしょうか。ここ最近のサンプリング・エロス路線とはかなり異なる作風のため、最近になって大石小説イコール、ソフト・エロスと認識している御仁にはやや物足りないかと感じられるものの、この「絶望的なハッピーエンド」はまさしく『アンダー・ユア・ベッド』に並ぶ至高といっていいほどの素晴らしさで、堪能しました。

物語そのものは非常にシンプルで、両親に出戻りの妹の三人と一緒に暮らす小金持ちの、――地味すぎて今までカレシもあまりいなかった冴えない歯科衛生士がヒロインで、その彼女を、年下の気弱な詐欺師の男が欺そうとする、という話。欺される方のヒロインと、ボーイの双方の心理を交互に描きながら物語を進めていく結構は、大石小説としてはすでに定番といえるでしょう。悪役といえる”蜘蛛”のボーイには兄のほか悪友がいて、このボーイの悲惨な過去も物語が進むにつれて明らかにされていくのですが、結婚詐欺の話といえば、「いつバレるのか」「結末はどうなるのか」という点に読者の興味は集約されるものながら、本作ではこのボーイが詐欺に関しては及び腰で、次第にピュアな彼女の気持ちに惹かれていく、――という心の揺らぎが見所でしょう。

彼女の方は一抹の不安を感じつつも、初めてエクスタシーを教えてくれたボーイのテクニックにメロメロ、……とまではいかないまでも、性の悦びが彼のことを疑いながらも惹かれてしまう理由の一つになっているところが、ここ最近の大石ワールド。中盤まではある意味、非常にシンプルな話が進んでいくのですが、いよいよ結婚が決まり、贋の新居が決まったあたりでもう一つの大きなイベントが発生し、これによって欺す側のボーイがますます窮地に追いやられてしまうという転調がイイ。

ここから物語はかなり意想外な方向に進んでいくのですが、名作の某映画を想起させるラストのシーンは確かに大石氏自らかなり気合いを入れて書いたというほどの素晴らしさで、贖罪を決意しながらも、未来に希望の光を見出すボーイと、「けれど、そんなことはもうどうでもよかった。……それが瑠璃子の望みだった」(309p)と語られるヒロインの決意との対比の精妙さ――。光と影という対比は作中でもたびたび、……とくにボーイの側から繰り返し言及されるモチーフなのですが、ボーイの視点とヒロインの視点を交互に描きながら、最後に大石氏がラスト・シーンに選んだのは、光なのか、影なのか……。これについては是非とも本作に手にとって皆さん自身で確認していただきたいと思うわけですが、敢えて”こちら”を選んだことに、大石氏の作風の変遷を長い間見つめてきた読者としては感慨深いものがあります。

“敢えて”、ラストシーンに”こちら”を選んだ、その気持ちこそが、今の大石氏なんだなァ、……と感じた次第です。読了してなおもこのラストシーンの余韻に浸ってしまう、という点では、ここ最近の大石小説の中では随一といえるかもしれません。最高傑作かどうかという点については様々な意見があろうかと思いますが、個人的には『アンダー・ユア・ベッド』に比肩する作品といってもいいかと。それほどの熱量が感じられる逸品でありました。オススメです(なお、ジャケ写はカバーを外したもの。こちらの方がカッコイイので、今回は敢えてこちらを掲載しました)。