味なしクッキー / 岸田 るり子

岸田女史といえば、文庫化でヒットを飛ばしている傑作『天使の眠り』や『Fの悲劇』、『めぐり会い』ーいった徳間からの長編三部作(と勝手に命名)が個人的にはお気に入りだったりするわけですが、本作は表題作を除けば、いずれも『ミステリーズ!』から『小説すばる』といった雑誌に掲載された短編を収録した一冊。いずれもイヤミスとして極上の魅力を放つ珠玉の逸品で、大いに堪能しました。

収録作はフランスを舞台に息詰まる男女のやりとりから連城的どんでん返しが炸裂する素晴らしい展開に、小説的構図のうまさを凝らした傑作「パリの壁」、女は怖いというイヤミスでは定番の主題にニャンコ好きは発狂必至という鬼畜ぶりが光る「決して忘れられない夜」、秀才男の犯罪の陥穽に現代社会の問題を絡めた「愚かな決断」、「父親はだれ?」、間違い電話に端を発した殺人事件から、これまた現代社会ならではの動機と陥穽を活写した「生命の電話」、幻想的謎を端緒として凡人男の悲哀と煉獄を描きつつ、構図の反転で読者を驚愕させるこれまた傑作「味なしクッキー」の全六編。

冒頭を飾る「パリの壁」は、正直、この一編を読むだけでもマスト、といえる傑作で、ある決意と策謀をもってパリ在住の男の元を訪れた女の視点から物語は始まります。語り手の話しぶりから、どうやら男は何やらトンデモない犯罪を過去にしでかしているようなのだが、……というところから次々と明かされる事実によって、今まで見ていた絵図が見事なまでに反転してしまうという外連が素晴らしい。『牝牛の柔らかな肉』や『恋』、『美の神たちの叛乱』といった長編で見られた連城マジックをギュッと一編の短編に凝縮してみせた面白さは収録作中ピカ一でしょう。

またそうしたミステリ的な技巧を離れて、一編の小説としての暗喩も見事で(以下文字反転)、冒頭、ド・ゴール空港から降りたった語り手がタクシーへと乗り込むとき、その「運転手はアラブ系らしい浅黒い肌と彫りの深い顔」をした人物で、そのあとに「この国は今や四〇パーセントがイスラム教徒だといわれている」という説明が続きます。さらっと読み流してしまうところなのですが、ここにいう「今や」という言葉を、最後のシーンで語り手が「フィリップ二世の城壁を見ながら」……という描写と対比させると思わずニヤリとしてしまいます。

「決して忘れられない夜」もまた、男と女の駆け引きめいたやりとりの中に、最後の奈落を思わせる女の挙措がイヤ怖い雰囲気を盛り上げていきます。女は怖い、というイヤミスならではのテーマが光る一編ですが、実は女の企みはもっと鬼畜なものかと予想していたので、本作の結末にはホッとしつつ、ほっこりした猫ミスかと思って読んでいたらこの展開には発狂すること間違いナシ。

「愚かな決断」は、何やら秀才君が完全犯罪完遂の真ッ最中に間違い電話が、――という、倒叙ものでは見慣れたシーンが展開されるのですが、秀才君を秀才君たらしめていたキャラが自らの地獄を引き寄せてしまったという皮肉なラストがいい。事件の発端となった間違い電話の真相が後半に明かされるのですが、この構図は「パリの壁」の変奏ともいえ、こうした作者の仕掛けの妙を対比することができるのも、一冊の本ならではでしょう。

「生命の電話」は、ボンクラキャラに見えた社長が間違い電話を受けて、……と、これまた「愚かな決断」と同様、間違い電話に端を発した一編ながら、こちらは探偵役が警察より先に真相に辿りついてしまったかと思いきや、哀切を誘う虚脱のラストが何ともいえません。

表題作の「味なしクッキー」は、女が浮気の真っ最中だったところを旦那に見つかって、……というエロいシーンかと思っていたら、これが幻想的な謎へと転じ、そこから妻殺しの犯人である男の悲壮な語りが始まります。平凡な男がいい女と結婚したらこんなヒドいことになるよ、という警鐘がめいた展開がボンクラとして相当にイヤーなかんじながら、妻の笑顔を見たこともなかったという男の哀しさは、そうしたイヤさを超えてものかなしい。

冒頭に描かれた幻想的謎の真相はアッサリと明かされつつも、そこからの男の決意と彼の内心を鑑みるにその哀しさはいや増すばかりで、妻の死という結末を知っているばかりに、これはフツーに悲話として終わるんだろうナ、と油断していると、(以下文字反転)――ここからは「重大なネタバレ」と指弾されるのはイヤなので、文字反転しておきますが、今まで悲哀の物語として語られていたものを、男の視点から、再び冒頭と同じ妻への視点へと戻して最後の最後にイヤミスへと転化させる技法の破壊度は相当なもの。

総じてイヤミスとしての純度も高く、また「味なしクッキー」や「生命の電話」「愚かな決断」など、男の奈落と悲哀をさらりと描き出したものとしても愉しめます。上にも述べましたが、本作は「パリの壁」の連城ミステリ的外連とと「味なしクッキー」の破壊度だけでも買いの一冊といえるのではないでしょう。オススメ、でしょう。