内容を簡単にまとめてしまうと、昭和三十年代から大きな盛り上がりを見せ、アッという間に衰退した貸本漫画の怪しい魅力をご紹介、というもの。駄目なものをダメだと頭ごなしに決めつけて退けるのではなく、その駄目なところを愛でて愉しもうというスタンスは、我々ダメミスを偏愛する好事家にも相通じるところがあります。
一応、漫画を紹介するという点では、昔昔に水声社から刊行された『マンガ地獄変』などを彷彿とさせる内容ながら、あちらが吉田豪氏をはじめとした複数からなる奇才執筆陣の熱い語りをウリにしていたのに対して、本作では、キタク氏一人が貸本マンガのダメっぷり、……もとい、その魅力について要所要所に巧みな突っ込みを入れながらあらすじを紹介していくという構成ゆえ、一冊の本としてトーンが統一されているところに注目でしょうか。『マンガ地獄変』がムックだとすると、こちらはシッカリとした単行本という体裁であるといえば、なんとなく本作の風格をイメージしていただけるのではないかと。
紹介されているおのおのの漫画については、作者の名前は知っていても読んだことがないものがほとんど、――というか全てでした(爆)。冒頭を飾るのは徳南一郎の『化け猫の月』。怪作『人間時計』はもちろん昔に読んだことがあって、そのキ印マックスの画風とアレ過ぎる展開は確かに鮮烈でしたが、『化け猫の月』も、キクタ氏のあらすじ紹介を一読するだけでその怪しすぎる雰囲気を十分に堪能することができました。「食うために」「東西南北浪人だらけ」「へんなもの」「猫が紡ぐ縁」など、あらすじ紹介をすすめていく中に添えられたタイトルも好印象で、ページ下にはマンガから引用されたコマを配してそこにナイスはツッコミをさらっと入れて見せる構成も秀逸です。
本作を読み通して感じられるのは、やはりキクタ氏の貸本マンガに対する偏愛としかいいようのない優しい情愛で、これだけの駄目な、――もとい、個性的な作品であれば、いくらでも辛辣に貶める言葉を思い浮かべることは容易ながら、そうした言い方をいっさい用いずに、展開や設定のいびつさに対しては優しく突っ込みを入れて読者をクスリとさせるその技芸には感心至極。好事家への作品紹介はかくあるべし、という心地よい文章がステキです。
本作に紹介されている作品はどれも妖しい魅力を放つ怪作ばかりなのですが、なかでも興味を惹かれたものをざっと挙げてみると、国枝史郎に書かせたらもしかすると大傑作になっていたカモ、と思わせる月宮美兎『怪談 蛇太郎』、違う作者の画風も異なるキャラを突如投入して物語世界を崩壊へと導くダダイズムの破壊力が素晴らしい渡辺美千太郎『赤太郎奇談』、眼球崩壊シーンの一コマでやはりこの作者と判ってしまういばら美喜『捨てばち』、金持ち娘の道楽遊びに翻弄されるピュア男子の悲劇が、最後の一コマで反転する構成に本格ミステリー魂を感じさせる辰巳ヨシヒロ『愛の机』、戸川昌子女王の大ファンであれば、その楽器の奇想に悶絶すること間違いナシと確信できる逸品、菅原茂『奇音』あたりでしょうか。
月宮美兎『怪談 蛇太郎』なんて、画風は確かに貸本時代の昔風味ながら、蛇少年の宿業と悲哀を描いたその作風は国枝史郎の伝奇小説と完全に一致。後半、隠し財宝を狙ったワルどもと蛇少年が相対し、大蛇と大百足が一戦を交えるという、大映特撮映画を彷彿とさせるシーンがあるんですが「何故に大蛇と百足?」と一瞬目がテンになってしまったものの、これってもしかしたら元ネタは「男体・赤城の神争い」や「近江三上山の百足退治」あたりではないのかナ、と思いなおした次第。だとしたら本作、意外に真面目な物語なのかもしれません。
辰巳ヨシヒロ『愛の机』は、本作で最後のワンシーンがしっかりと描かれてい、完全にネタバレをカマしてしまってはいるものの、本作がもう普通には読むことができないことを考えれば没問題。こうした構図の反転を、コロシも事件もない物語の中に凝らしてみせた作者の試みも、当時からすればかなり斬新だったのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
というわけで、入手はまず不可能という貸本の魅力を満喫できる本作、当時を知る好事家のみならず(ちなみに自分は貸本はギリギリ知らない世代)、おとしやかで真面目すぎるイマドキのマンガに辟易しているヤングも愉しめるのではないでしょうか。なお、ジャケ帯の「昭和30年代に隆盛して瞬く間に姿を消した貸本マンガ そこには読者が求めていた自由(+勝手)な表現があった!!」という惹句を読後眼にして、「これって読者が求めていた、じゃなくて、作者が求めていた、の誤植なんじゃァ……」と苦笑してしまったのはナイショです(爆)。