Missing / Kazuma Okabayashi

先日二枚のアルバムを取り上げたSaito Kojiを日本のインディーズ・アンビエント・シーンの鬼才とすれば、こちらは俊英とでもいうべきKazuma Okabayashiの一枚。自分が初めて聴いたのがこのアルバムで、すでに個人名義でも最新作にして大傑作の『Synesthesia』や、『Cellar Door』、『I will finally reach there.』などいくつかのアルバムをものにしているKazuma Okabayashiですが、本作は表現集団 -AMARTからのリリースで、アルバムの構成などにQQことQuadrupole Quartetが関わっているところから、前掲したアルバムともまた異なる魅力を放つ傑作へと仕上がっています。

上述したとおり一番最初に聴いたKazuma Okabayashiのアルバムということもあって、個人的には強烈な印象を残している本作は、全5曲収録。冒頭の“Answer”を聴いたときは、Brian Enoの『Music For Airports』のような邪魔にならずにかけっぱなしにしていられる音楽かな、――などと軽く聞き流していたのですが、これに続く“The end”から様相が変わってきます。ノスタルジックというか、和の郷愁を色濃く感じさせる音。そして何よりもおどろいたのが、基本的にこのアルバム、楽器の音が”しない”。

ちょっと自分のこの感覚には説明が必要かもしれません。例えば優れたオーケストラの演奏する音楽に耳を澄ませていると、そこでは管楽器や弦楽器という楽器の音はなく、ただ音のみが旋律を奏で、音像を作り出していく――そんな感覚を抱くことがあります。ときとして楽器の音ばかりが立ってしまうと、それは音や曲そのものを阻害する要因ともなり、自分は音楽そのものを愉しめなくなってしまうのですが、このアルバムはシンプルな音の連なりでありながら、オーケストラとは逆方向の「引き算」によって、豊饒な音空間を構築しているところに独特の凄みがある。

重厚な音の連なりによって、こうしたアンビエントな音空間をつくりだすことはもちろん可能でしょうが、それだとおそらく、この一種独特な和のノスタルジーを喚起することはできなかったのではないか。そんな気がします。

守破離でいえば、3曲目の“Karma”がいわば「破」に相当し、その後の“88’”から“Life”へと続く展開が個人的には圧巻。“Life”の持つノスタルジーの「呪力」は相当なもので、前半部の旋律を主導する音は、子供のころ、夕暮れ時に近くの学校の音楽教室からふと聞こえてきたピアノのような――そんなイメージが浮かんでくる(そう、ここだけは強烈にピアノの音が聞こえてくる。前半部とのこのコントラストがまたたまらない)。この終わり方と構成は、Boards Of Canadaの『Geogaddi 』のラストを彷彿とさせます。それでいて、徹底してこのアルバムは強烈な和の印象を放つ。

とにかく中毒性のあるアルバムで、凡百のアンビエントのような「ただ心地よい」だけじゃない、秘めやかな”甘美な毒”とでもいうべきものがここにはあり、これは続いてリリースされた『I will finally reach there.』や『Cellar Door』、そこからさらなる高みへと突き抜けた大傑作『Synesthesia』にも感じられるKazuma Okabayashiの個性ではないか、――そんなふうに感じています。いずれのアルバムも作風が異なってい、過去作を聴き直してまた新しいアルバムを聴いてみると、その変化と深化に新しい発見があるところも氏の作品の魅力でしょう。どのアルバムから聴いても間違いはないのですが、最新作へと至る最近の深化を堪能したいというのであれば、本アルバムから聴き始めるのはオススメです。

0 comments on “Missing / Kazuma Okabayashi

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。