陳浩基『網内人』の日本語版が文藝春秋社から刊行されて一月以上が経過したので、ネタバレも交えてこの作品について書いてみたいと思います。これは完全にネタバレだろうなァ……という箇所については文字反転する予定ですが、未読の方には本記事をスルーされることを推奨します。なお、台湾版が刊行された当時の感想は以下の記事を参照のこと。
まず原本となる台湾版から数年を経て刊行された日本語版ですが、『世界を売った男』が日本語版において事件の真相や結末などを大幅にアップデートしてのリリースとなったのに比較すると、基本的には台湾版を底本としています。日本語版の前に各国でも刊行された本作ですが、そのなかで異彩を放つのは英国版でしょう。英国版では結末こそ同じであるものの、終章の前に第十章が追加されるかたちとなっています。そこで日本語版の読者であれば、この英国版に興味のある方もおられるかもしれないので、この点について少しだけ。
この英国版で第十章が追加された経緯ですが、作者によると、本編を読了した英国版の担当編集者から「結末が判りにくい」との指摘を受け、本作における”ある大きな仕掛け”を「説明」するために加筆したとのことでした。その内容はというと、「章」というには短く、日本語にすると原稿用紙でおおよそ9枚強といったところでしょうか。内容はというと、作中に登場するアニエとアイの敵方にあたる「ナナ」と「マウス」のエピソードとなっています。第九章でのアニエの仕掛けた復讐があのような形で結末を迎えたその後日談で、「ナナ」と「マウス」の背景が語られ、あの事件のあと二人はどうしているのか、――そのあたりを描きつつ、上にも述べた”ある大きな仕掛け”に気がつかないでいる読者にも判るよう、「マウス」のモノローグによってその説明がなされる、という趣向になっています。
個人的には、『イニシエーション・ラブ』を読んでいる日本の本格ミステリ読者であれば、本作における”ある大きな仕掛け”に気がつかないはずはないかと思うのですが、台湾のレビューなどには、読了してなお勘違いしているものも散見されるので、気がつかない人は本当に気がつかないのかもしれません。
さて、そんな経緯もあって、日本語版ではこの第十章を付け加えるべきかどうかは、けっこうギリギリまで編集者のA氏も悩まれたようですが、この仕掛けに対する作者の意図なども鑑みて日本語版では敢えて付け加えないことになりました。『日本語版へのあとがき』で、「登場人物たちの心情にかぶれてしまった」という作者は、「書いている途中で、二人の主役の特徴や個性を詰めていこうと細部を書き込んでいくうち、彼らを物語を牽引するただの道具とすることができなくなってしまった」と述べていますが、それでいて「ナナ」と「マウス」の後日譚を敢えて”切り捨て”、本格ミステリとしてのおどろきの効果を最大限に活かそうとした作者の本格ミステリに対する「美意識」とその裏側にある「非情さ」に自分は痺れてしまうのですが、これは第十章を読んでいるからこその感想かもしれません。
「ナナ」と「マウス」二人の背景と後日譚を綴った第十章は、それだけで独立して読むことができるエピソードではありますが、『世界を売った男』の文庫化に際して作者が執筆した数枚のショート・ショートと比較するとおどろきは薄く、今後この第十章のエピソードだけを切り出して日本で発表されるかどうかは不明です。『世界を売った男』の後日譚となるショート・ショートは未発表のままですが、これはあの作品の主要登場人物が一堂に会する趣向に、作者ならではの騙りの仕掛けを凝らした逸品で、『世界を売った男』の登場人物たちに思い入れのある方であれば相当に愉しむことができるのではないでしょうか。
――と、ここまで書いていてかなり長くなってしまったので、2017年の島田荘司推理小説賞の授賞式前に作者と話した本作に関する内容については別の記事で述べたいと思います。続く。