【推理會客室】「咬住骨頭就不放的偵探」── 張國立vs.寵物先生,兩位台灣推理作家的對話 (2)

前回の続きです。ちなみにこの記事の中に出てくる『棄業偵探』の二冊は手に入れたのですが、まだ未読(爆)。近いうちに読んだ後、感想をブログにあげたいと思います。

寵物先生:記者の本質は探偵と同じだと?

:まったくその通り。どちらも「食らいついたら離さない」という点では同じだろう。

寵物先生:小説の中で、ヤクザは警察に取り入って、裏でつながったりしているわけですが、これもいまの台湾の姿だと?

:台湾のヤクザは、他の国とはまったく違うんだよ。その地域の文化や歴史と分かちがたく結びついている。台湾では警察がヤマを解決するのは簡単なことでね、ヤクザの元締めに「で、こいつは誰がしたことなんだ?」と訊くんだ。そうすると「誰の仕業かは私の預かりしらぬことではありますが、明日にはそいつを引き渡しましょうや」ということになって、実際その言葉とおりに翌日、二人は自首してくるというわけさ。自首すれば、減刑されるからな。それに取り調べに協力的であれば、それもまた減刑の対象になる。何で殺したんだと訊けば、ついかっとなってと答えておけばいい。私はだから『棄業偵探』第一巻のストーリーは、「踏まれたら、殴っちまえ」というかんじに仕上げてみたんだ。

寵物先生:嚕嚕という女の子が出てきますよね。彼女は大人の世界ではよそ者といったかんじがします。
張:彼女はいうなれば「真実」の象徴なんだ。大人の世界は偽物ばかりだろう。馬可は”逃避”し、柳の兄貴はまわりくどい。大人の世界っていうのは、色々と気を遣う。それに比べて子供の世界っていうのは、すべてが明快なんだ。まっすぐなんだな。だから第一巻に収録されている物語の中で、事件を解決する手がかりは、嚕嚕のちょっとした一言だったりする。はっきりしたことであっても、ひとたび大人の事情が絡んでくると、話が複雑になってしまうわけでね。

寵物先生:嚕嚕と馬可がおしゃべりをしながら、馬可の考えていることをずばり当てて見せたりしますね。これは誰かの――。

:そう、これは実話でね。九歳の姪っ子がいるんだが、彼女がキッチンのテーブルに突っ伏した格好で宿題をこなしているときに「何書こうかなー。どうして毎日これやんなきゃいけないのー」とひとりごとをぶつぶつ呟いていたことがあって、そこでふとひらめいたんだ。「どうしてこんなところで宿題をしているんだい?」と訊くと、彼女は「だってこれ、すごく難しいんだもん。もうやだー。だからこうしてるの」という。それで、彼女はどんなことを書くのかな、と考えてみたんだ。もっともこれは彼女の宿題で、私のものじゃない。この発想ががちょっとおもしろいと思って、それで小説の中で使ってみたんだよ。

寵物先生:じゃあ、その姪っ子さんも超能力がある(笑)。
張:いや、これは超能力と呼べるようなものじゃない。私たちは皆こんなふうにして大きくなっていくんだが、大人になってしまうと忘れてしまうんだな。

寵物先生:今後、嚕嚕の両親や一族と中能力について書くつもりは?

:第三巻では、彼女の母方の祖父と祖母について書いてみた。この一族の環境は非常に特殊でね、だから数百年を凝縮するようなかたちになってしまう。このあたりは、今後書くことになるいくだろうね。

寵物先生:第二巻では死体だけじゃなく、密室まで出てきますね。ミステリファンとしてはこうした謎はとても興味深いわけですが、『棄業偵探』では、こうしたミステリとしての要素をどんなふうに仕上げようと?

:中国を書いてみたいんだよ。中国のミステリといえば、子供のころに初めて読んだのが『七俠五義』で、その次が『濟公傳』だった。濟公は毎度飲んだくれて酔っ払っているばかりなんだが、それで事件を解決してしまう。濟公のだらしがない様子は馬可にも通じるものがあるんじゃないかな。一番よかったのは『施公案』だが、しかし中国のミステリっていうのは、みんな最後には神仙やら妖怪がでてくる――これがちょっと問題でね、しかしまあ、神仙やら妖怪の類いは中国人のDNAにすり込まれているんだろう。だから私がミステリを書こうと思ったとき、中国ふうにしようと思ったというわけなんだ。

第二巻、第三巻と、神仙妖怪の類いが出てくるんだが、それでも近代的なロジックはあるし、もちろんそれだけじゃない。古典の精神も活かされているよ。ミステリを書くとなると、まずは小説の中に登場する舞台に気を配るんだ。取材に赴いて写真を撮ることもあるし、そうすることで、ある変化が起きて物語の中に台湾らしさが出てくるんだ。次に、中国的なものだな。第二巻では『神仙傳』をくわえてみた。そうすることで私の個性といったものが出てきたと思う。……実を言うと、もともとはこういう話じゃなかったんだよ。三年前に『時報週刊』を辞めたあと、上海に行って民国三十四年から八年に発生した刑事事件について書いてみるつもりだったんだ。しかしそのあと別のストーリーを思いついてね。

寵物先生:『棄業偵探』の第二巻では「不老不死」といった超自然現象が出てきますね。これも中国の小説の影響? 中国の公案小説にも降霊術のようなものはありますが……

:中国はとても特殊でね。私だってずっと台湾にいたものだから、中国といってもそれはあくまで台湾から見た中国に過ぎなかった。ようやく両岸が開放されて大陸に行ってみると、そりゃあ呆気にとられたもんだよ。上海に行ったときに、青幇だったという老人に会ったんだが、とても礼儀正しいひとでね、帰り際に、ふと「『一指禪』というのを聞いたことはありますか」と訊いてみたんだ。すると彼は黄埔公園の樹の上をさっと指さすや、その次の瞬間、そこにはぽっかりと穴が空いていたんだ。そりゃあもう、びっくりしたね。

もうひとつは雲南の村で、真夜中だっていうのに、傘をさしながら城壁の上をとんとんと跳ねている人がいたんだ。それでいったい何をしてるのか、と尋ねると、彼は「親父に教えてもらった軽功を練習しているんだ」と。三つ目は、香港の話でね、大陸の人間はレストランに行っても広東語が判らないだろ。それで香港人にいじめられるわけだ。大勢の従業員たちに取り囲まれ、何人は包丁まで手にしている。すると彼はビルをひらりと飛び越えて逃げてしまったんだ。そうなるともう、追いかけることもできない。そんなことを目にしてから、世界の見方が変わってね、ありきたりじゃない方法で、そうした出来事を小説にしてみようと思ったんだ。

寵物先生:『棄業偵探』には、美食が重要な要素をしめています。この理由は?

:食べることが好きなんだよ。とくに野菜がね。これは私のDNAにすり込まれているんだろうな。『棄業偵探』の第二巻に収録されている最終話で、馬可がレストランで犯人を捕まえるシーンがあるんだろう。あれは犯人のDNAだな。誰だって、食欲というDNAから逃れることはできない。冬陽みたいに高雄に来るたびに店をいくつも廻るようにだ。ニューヨークの作家は必ず中華料屋を物語の中に登場させる。ポール・オースターにローレンス・ブロック。みんな中華レストランが出てくるだろう。チャイナタウン、中国料理レストラン、左宗棠鶏、木須炒麺……それらはいわばその都市の精神を象徴しているんだよ。

寵物先生:『棄業偵探』の第二巻で印象的だったのは、イタリアのパスタですかね。

:台北ではちょっと違うかな。老宇みたいに。彼は滷肉飯が好きだろ。魷魚羹に蘿蔔糕、燒餅油條といった料理は台北人のものだな。どうも皆は私がフランス料理や、イタリアレストランで食事をするもんだと思っているみたいだがね。『棄業偵探』第二巻に登場する李易なんかは、イタリアレストランに行って食事はするが、滷肉飯は食べない。一方、老宇たちはイタリア料理は食べないが、滷肉飯の方が好きなんだろうな。これも台北人の嘘と誠を表しているんだ。

寵物先生:最後に、台湾ミステリは今後どう発展していくと思いますか?

:台湾では、ミステリだけじゃない、小説を書く人間はそれはもう、大変だ。どういうことかというと、「台湾の小説を読む人がいない」んだ。読者は台湾の小説にそもそも関心がない。翻訳作品がたくさん入ってくるだろ。海外の作品に比較すると、台湾の小説の立場は非常に苦しい。ミステリとなると、それはもっと大変なわけで、台湾でミステリを書くとしたら、それは相当に強い個性があって、台湾ならではの特色がなくちゃいけない。

台湾では日本のようにトラベル・ミステリは書けないし、かといって欧米のような法廷ものも難しい。今のやりかたが正しいのかは判らないが、それでも満足はしているよ。「ポアロだ、明智小五郎だ」とか、そんなことは無理だ。台湾の警察だってヤクザだって、それに記者もね。やはり他の国とは違う。台湾の女性だって、きっと違うわけだから、台湾の作家は努力して「台湾ならではの」キャラクターをつくりだすべきだろう。どんな文化であれ、その土地ならではの個性があるはずなんだ。作家にしろ社会にしろ、そうしたものが彩りを添えている。ミステリを書こうというのなら、作品の登場人物にはっきりとした個性があるかどうか、そのことに注力するべきだ。架空の国民的ヒーローが、古くさい伝統に刃向かってみせるような物語であれば、それは楽しい読み物になるだろうな。