写真の現在4 そのときの光、そのさきの風@東京国立近代美術館

これも見に行ったのはちょっと前なんですけど、簡単ながら感想を。「注目すべき中堅、若手作家の仕事から写真表現の現在地点を考えるシリーズの4回目」となる今回の展示ですが、自分は、独特の浮遊感と幻視が魅力である中村綾緒のプリント(とはちょっと違います。これについては後述)を見に行くのが目的でありました。

もちろん中村綾緒も期待通りの素晴らしい展示だったのですが、今回は新井卓のダゲレオタイプの作品群に完全ノックアウト。銀板写真が暗室めいた小狭い部屋の中にずらりと並べられたインスタレーションは、四人の中ではもっとも異彩を放っていました。そもそも銀板写真の展示対象は、プリントではなく、像が定着された鏡面”そのもの” であり、暗い部屋だと、いくら眼を凝らしても、鏡面に定着された像そのものをはっきりと見ることができません。

展示は、壁一面に銀板を並べるとともに、部屋のほぼ中央に何枚かの銀板が裏からも覗くことできるように据え置かれてい、目線よりやや上のあたりに電球がぶらさがっているという異様さ、――上にも述べたとおり、暗室の中では眼を凝らしても、銀板には自分の顔が映るばかりなわけですが、怪訝な顔をしながら暗がりの中でしばらく展示を眺めていると、不意打ちのように電球が点灯し、その周囲の銀板の像を見ることができるという趣向です。

ひとつひとつの銀板自体がかなり小さいので、薄暗がりの中で像の細部まで見ることは難しいものの、かといって図版では「銀板に定着されたイメージ」と「鏡面に映し出された自分の顔」が二重写しとなった奇妙な像を眺めるという、――ダゲレオタイプの特有の鑑賞を完全に再現することはできません。やはりこればかりは実物を鑑賞するしかないでしょう。定着された像を見るという行為においては、もちろんダゲレオタイプもまた”写真”であるわけですが、個人的には、薄闇のなかに眼を凝らして、鏡面に映し出されている自分の姿から、”写真”であるイメージを抽出するという今回の体験は、写真鑑賞という点ではかなりの衝撃でありました。

写真らしくないという点では、中村綾緒も相当なもので、ふわふわとした群衆や水の反射のイメージが、クリアパネルの上にパララックスを伴って浮かび上がるという趣向は相当に個性的。透明な浮遊感を活かした写真の展示も素晴らしかったのですが、奥の部屋のビデオ・インスターレーションがまた写真を遙かに上回る出来映えでした。写真家のビデオ・インスタレーションといえば、最近見た川内倫子のものも秀逸でしたが、あちらが映されたイメージを眼で追いかけるものだったのに比較すると、中村綾緒のインスターレーションは”見る”というよりは、映し出されたイメージに”浸る”と言った方がいいかもしれません。

狭い部屋の中で、相対するようなかたちで二編のビデオが流されてい、それらのいずれも彼女の写真の作風とおりに原色の光や明瞭な像を伴わない何かが、フェイドインとフェイドアウトを繰り返していくというもので、暗い部屋の天井や壁には映し出されたイメージが反射して、中央に佇んだままいずれかの像をぼーっと眺めているとトリップできそうなほどキモチ良かったです(爆)。このインスタレーションだけでも三〇分くらい眺めていたかもしれません。

有元伸也と本山周平は、いずれもトーンの美しいモノクロ写真ながら……スミマセン。中村綾緒と新井卓があまりにインパクト大だったため、今回はあまり印象に残っていないという……。自分のような妙な”写真”が大好きという好事家や、写真と現代美術の境界線を軽々と超えてしまえる方であれば、新井卓のダゲレオタイプの展示はかなり愉しめるのではないでしょうか。オススメです。