無名之女 / 林斯諺

台湾ミステリネタはもっぱらfacebookの方で取り上げているのですが、たまにはこちらでも、ということで、今回は、台湾で本日刊行となった林斯諺の『無名之女』を取り上げたいと思います。

本作は、昨年の第二回島田荘司推理小説賞に投稿された作品で、入賞こそ逃したものの、その奇想を御大が絶賛したことからめでたくリリースとなった作品です。第一回島田荘司推理小説賞に入選した『冰鏡莊殺人事件』とはまったく異なる作風で、『冰鏡莊殺人事件』が古典リスペクトの嵐の山荘ものだとすると、こちらは『虚擬街頭漂流記』と並ぶ21世紀本格の傑作といえるでしょう。

物語は、大学の先生をしている主人公の前に突然オキャンな娘ッ子が現れるところから始まります。二人はやがて恋に落ち、男が女にふり回されるような格好で愉しい毎日を過ごしていたが、ある日、女は何も告げずに彼の前から失踪してしまう。失意に沈む主人公のもとに、しかし失踪した元カノを名乗る女性が現れたところから物語は奇妙な方向に進んでいきます。しかし彼女の外見はどうしたって元カノではない。訝る彼に、その女性は何と、自分はキ印博士に拉致され、脳交換の手術を受けたのだと告白する。当然そんな話を信じることができない彼だったが、キャラは元カノそっくり、そして記憶も元カノまんまというその女性といいカンジになっていく。しかし、今度は元カノにしか見えない謎の女が彼の前に現れ、……という話。

実は、今日刊行されたこの作品、『無名之女』とタイトルこそ同じなのですが、島田荘司推理小説賞に投じられたものを大改稿したもので、話の筋こそ同じものの、その結末と後半の展開は大きく異なります。以下は、”初稿”、”本作”というふうに区別して話を進めますが、初稿は脳交換という奇天烈なネタを扱いながらも、自己同一性と男女の愛を主題にした、――非常によく練られた恋愛ミステリでした。

恋愛ミステリとはいえ、当然脳交換という”謎”を提示し、体は異なるも性格は元カノという女性Aと、体はそのマンマで性格は悪女という女性Bという二人の女性の狭間で煩悶する男の苦悩と、この背後に潜む奸計を描いた初稿はまた紛れもない本格ミステリーでもあり、謎の女性とその奸計が暴かれた後に明らかにされる犯人の苦悩とその心の闇、さらには探偵対犯人の構図の活写など、入賞を逃したとはいえ、この初稿もまた傑作の名に相応しい一編でした。

当然、このまま刊行という選択もあったわけですが、この恋愛ミステリとしても完成された物語を換骨奪胎どころか、まったく異なる風格の作品へと仕上げてしまった林斯諺の超絶技巧にはただただ感歎するしかありません。何が凄いかというと、事件の構図に繋がるある重要なシーンもを除けば、本作と初稿に描かれているシーンはほとんど同じにもかかわらず、まったく違った物語と真相を生み出しており、たとえば初稿では中盤のある謎解きのシーンに描かれるあることを後半に持ってくることで、まったく意想外の効果をあげているところや、さらにはこの構成の変化を最大限に活かすために用いられた21世紀本格の技法の冴えなど、本作を完成された一冊として鑑賞する以上に、初稿と本作との比較は新鮮な驚きと気づきをもたらしてくれます。

これは御大も選評のときだったかにチラっと口にしていたのですが、リアリズムに徹する”普通”の本格ミステリの技法を採る限り、「脳交換はあったのか、なかったのか」という、いうなれば”むき出し”の謎の提示には、ひとつの答えしかありえないわけです。その意味では、この”むき出し”にされた謎は、本格ミステリーの読者にとっては謎ではなく、それゆえに謎―推理―真相からもたらされる驚きは脆弱なものとならざるをえない。

しかし、そうした弱さを恋愛ミステリ的な風格を採用することでもたらされるサスペンスによって大々的な補強を行い、そこへさらに自己同一性という哲学的なテーマを絡めて、犯人の奸計の背後に見え隠れしていた心の闇と狂気を明らかにしたのが初稿版の魅力でありました。

本作では、そうした”むき出し”の謎から生じる脆弱さを何かによって補強するのではなく、21世紀本格の技法を採ることで徹底的な再構築が行われています。この驚くべき真相は、御大の作品でいえば、傑作『ハロゥウイン・ダンサー』を彷彿とさせる、――といえば、何となく本作の雰囲気を感じてもらえるでしょうか。この構造の転換は、犯人の心の闇と悲哀を美しく描いた初稿の幕引きからも大きな変化を見せており、本作は林斯諺「らしくない」といえるくらいの悪魔主義的なラストで読者を唖然とさせてくれます。

『無名之女』には、初稿と最終稿である本作がある、と上に述べましたが、実をいうと、最終稿にいたるまでにはもう一つのバージョンがありました。このことは日本語で紹介しているところが今のところないようなので、ホンの少しだけこの最終稿にいたるまでの裏話を書いておくと、……このひとつの前のバージョンにまとまるまで、作者の林斯諺と皇冠は本作のタイトルをどうするか結構悩んでいた様子。

『無名之女』は、第二回島田荘司推理小説賞に投稿されたときのタイトルそのままなのですが、いろいろな案が浮かんでは消えていき、何となくしっくりこないけど、まあ、やっぱり『無名之女』でいくかと決まってあと一ヶ月ほどで刊行となるところで、作者の林斯諺はある天啓を得、ラスト・シーンを書き換えることになりました。

で、この最終稿の改稿部分ですが、最後の場面で、『無名之女』とは何者だったのか、という隠された謎に対する解が与えられるという着地は見事というほかなく、悪魔主義の横溢した本作のラスト・シーンへと結実するために、『無名之女』というタイトルはさながら啓示のようにはじめから用意されていたのではないか、――そんな神秘を感じてしまうほど、このラスト・シーンとタイトルは決まっています。

『虚擬街頭漂流記』に次ぐ21世紀本格の傑作として、作者・林斯諺の新たなる代表作であるとともに、台湾ミステリ史の中でもおそらく重要な地位を占めるであろう本作、あいにく日本語では読めませんが、御大の『ハロゥウイン・ダンサー』や、乾くるみの『スリープ』のような 21世紀本格の作品が好みの人であればかなり愉しめるのではないでしょうか。おすすめです。