冬陽氏による『無名之女』の作者・林斯諺氏へのインタビューをざっと日本語にしたものを二回に分けてお送りします。前半は『無名之女』を第二回島田荘司推理小説賞に投稿するまでの経緯と自身の作風の変化についてなどで、後半はさらに台湾ミステリが抱える課題について、氏なりの視点が語られています。なお、原文はこちら。
聞き手:冬陽
私の記憶に間違いがなければ、はじめて林斯諺に会ったのは、十年前、高雄の民衆日報ビルの会議室だったはずだ。現在の台湾推理作家協会賞の前身となる人狼城推理文学賞の授賞式の壇上で眼にした林斯諺の――木訥とした口数の少ない青年という印象はいまも変わらない。しかし彼の小説はあれから大きく変化した。短編「霧影莊殺人事件」、「聖誕夜奇蹟」や、『尼羅河魅影之謎』、『冰鏡莊殺人事件』といった長編から、皇冠より今月刊行される『無名之女』にいたるまでの間、彼の小説の作風とテーマは、変化と不動の間でさらなる進化を遂げている。
林斯諺の熱心なファンのみならず、まだ彼の作品を手に取ったことのない読者にも、このインタビューが彼の小説の新しい視点を見いだすきっかけとなり、またこの驚くべき作家と華文ミステリをより深く知る一助となればと思う。Q1. 第二回島田荘司推理小説賞に応募した『無名之女』は、入賞こそ逃したものの、島田荘司をはじめ多くの人たちの期待を集めて、今回、多くの改稿を経た完全版として刊行されることになりました。まずはどんな気持ちからこの賞に挑戦しようと思ったのか、そしてそのためにどんなことをしたのかを聞かせてもらえますか?
「修士論文のテーマを考えているときに、これを小説に活かすことはできないだろうかと考えたんです。そうすれば、論文を仕上げている間に小説を書く下準備までできるというわけで、時間の節約にもなるし、自分にとっても都合がいい。論文では『自己同一性』をテーマに選んだわけですが、『無名之女』も当初はそうしたテーマをもって物語を組み立てていきました。ですからこの小説の構想は、島田荘司推理小説賞よりも先にあったということですね。『冰鏡莊殺人事件』は話がやや旧式に過ぎるという評価をされ、結局、受賞できなかったわけで、だったら第二回では、もっと斬新な作品で勝負してやろうと。少なくとも自分の読んできた本のなかにはないような、斬新な小説でね。
第二回島田荘司推理小説賞のための小説を書き上げているときの半年は、自分の人生で中で最も忙しかったんじゃないかというくらい大変な時期だったんです。もう体がいくつあっても足りないくらいで。それでいよいよ締め切りが近づいてきたというのに、小説は一向に完成しない。そうなるともう、焦りばかりが先に立ってしまって、それならばと最後の一ヶ月で物語の結末からトリック、さらには真相の部分にまで大幅な変更を行いました。
そうしてようやく謎解きの部分にも取りかかることができたもものの、短い時間で一気に書き上げたものですから、当初の構想からはかなりかけ離れたものになってしまい、結局、謎解きもやや”緩い”ものになってしまった挙げ句、考えていたものとは違ったものになってしまった。どうにか書き上げたといっても、書き急いでしまったことも事実で、ミスもあった。で、結局、落選してしまったというわけです。今回刊行される本にはちょっとした違いがあって――改稿を経て出版されたこの物語の構想は、もともと頭の中にあったもので、賞に応募した方は言うなればやっつけで物語の方向性を変えてしまったものだったんです」
Q2.『無名之女』の登場人物は脳の交換手術を施され、作中ではアイデンティティに関する思索も盛り込まれています。そのあたりの説明が分かりやすく、またうまく物語に溶け込んでいたように思うんですが、実をいうと、私はこの手の哲学云々といったものにはあまり明るくなくて……ミステリの創作に哲学を持ち込むことにはどんな効果があるんでしょう?
「ミステリを除けば、哲学は私にとってもっとも興味のあるもので、研究所の仕事でも哲学をやっています。ですからミステリと哲学という異なるものを結びつけることも難しくは感じず、ごく自然にできたんですね。研究所の仕事を終えると、哲学とミステリをどう融合させればよいだろう、とそんなことばかりを考えていましたから。
哲学を導入することで、ミステリに違った光をあてることができるのではないか――いまの私にとって、哲学はミステリをさらに進化させるための手段であると言うこともできるでしょうか。哲学を扱ったミステリは、『無名之女』以外にも、哲学を扱ったミステリは、『無名之女』以外にも、「第五大道謀殺案」という短編があります。これは今年、中国のミステリ賞で二位を獲った作品で、中国の雑誌に「デカルトの悪魔」というタイトルで掲載される予定になってます。いま取りかかっている長編も、ほとんど完成はしているのですが、これもそうですね。哲学をテーマとした作品です。この創作方法についてはまだ色々と模索している段階ですが、作品を書き続けているうちに、もっとこなれたものになっていくと思います」
Q3.あなたの作品で、私をはじめ多くの読者が惹かれるのは、登場人物たちの心の機微を鮮やかな描き出すその筆致にあるのではないでしょうか。これは登場人物たちの会話やストーリーの展開にも素晴らしい効果を与えているし、あなたの作品の個性ともいえるものだと思うんですが、これについて何か影響を受けた作品などはありますか?
「別にそういったものはありませんね。これは完全に私のスタイルなんでしょう。私は『理性と感性は同じくらい大切なものである』という考えに惹かれます。というのも、ミステリでは、論理的な部分だけではなく、そうした情感を描いたところも好きなんですよ。もっと歳を重ねていけば、こうしたところも上達していくでしょう」(続く)