「バルテュス最後の写真—密室の対話」展|@三菱一号館美術館

「バルテュス最後の写真—密室の対話」展|@三菱一号館美術館先週足を運んだ本展なのですが、体調不良と忙しさでブッ倒れていたため、感想をあげるのが遅れてしまいました。宣伝戦略としては、上野のバルテュス展と対をなすカンジで売り込んではいるものの、内容は大きく異なります。展覧の内容は写真でありながら、写真でないというか、――このあたりをどうとらえるかによって本展の感想は大きく異なってくるような気がします。

現在、会場となる三菱一号館美術館では「ヴァロットン展 ―冷たい炎の画家」が絶賛開催中で、ボリュームからしてもそちらを全面的に押しており、本展は三菱一号館美術館に到着しても会場の入り口がどこなのか判らないというテイタラク(爆)。一応、ヴァロットン展の入り口あたりと有楽町方面から歩いてきた場合のことを考えてか、カフェ入り口の二カ所にささやかな案内ポスターが掲げられているのですが、これを見ていっても入り口のところにそれらしいポスターの掲示がないので難儀することしきり、――結論からいうと、歴史資料館の入り口が本展の入り口を兼ねていました。

上野のバルテュス展の半券を見せるとさらに百円引きということで、結局四百円で本展を観ることができたのですが、この激安ぶりですから、展示のボリュームについては推して知るべし。薄暗い部屋ひとつの中央にガラスケースをおき、その中にバルテュスがモデルを撮影したポラロイドが妖しく並べられてい、部屋の奥と脇にはそれを拡大した写真が”作品然”とした雰囲気で掲げられていました。ポラロイドはいずれも、照明のためかグリーンやイエローに激しく転び、ソファにしどけなく腰掛けた少女を、アレ・ブレ・ボケでとらえたというもので、これらを「写真作品」として眺めれば感想は微妙、……というところですが、「本展の見所」にもある通り、「最晩年に手の自由がきかなくなると、鉛筆をポラロイドに持ち替え、デッサンに代えてモデルを撮影」したものだと考えれば、これは純然たる写真でも、また「作品」でもなく、「デッサン」に変わる「何か」だということが判ります。

会場が狭いため、ガラスケースを覗き込むたびに、学芸員のお姉さんがススーッと背後に回って不届きな所行に出ないよう監視されている、――という、非常に緊張した雰囲気での鑑賞を強いられたため(爆)、内容をメモすることもかなわず、記憶を辿るしかないのですが、バルテュスのポラロイドのモデルになっていた女性曰く、バルテュスはシャッターを押す前にポージングに気を遣い、さらにジーッと長い間モデルを凝視していたそうです。凝視している間、おそらくバルテュスは脳内カンバスにそのペンを走らせていたものと推察され、そう考えると、シャッターを押すという行為は、脳内のデッサンを終了する合図か何かで、撮影という行為そのものは、脳裏に焼きつけたデッサンを後日あらためて辿るためのメモや記録の類い、ということだったのでしょう。そうしてみると、ここに残された数々のポラロイドは「写真」でもなく、また「デッサン」とも異なる何かということになります。

「写真」の展覧として観ると、感想はやや複雑で、自分の場合、写真においては、藤原新也が『新東洋街道』で述べているような「瞬視」によって撮影されたものを至上とするゆえ、今回のバルテュスのポラロイドはそれとはまったく正反対の立ち位置にあるものといえるかもしれません。ちなみに「瞬視」について、藤原新也が述べている箇所を簡単に引用しておくと、

私は中国の昔の禅用語に、”瞬視”という言葉があるものを想い出した。
長くものごとを見つめていると、事象の真の姿は逆に隠れて見えなくなるから、瞬時に見抜け、ということだ。
ここには既成の意味を取り払った無意識の状態で、外から、一瞬、眼に飛び込んでくるものを受容するなら、物事の本当の姿が見きわめられると言うことが言い表されているのだと思う。
この禅用語は写真を撮る行いによく似ているといえる。長々とものを見つめて撮った写真は優等生的で外面の形はよく写っているが、事象の魂の中まで光が届いていない。それと逆に、自分が空虚になっていて、一瞬見えたものを受け入れてしまった画面には、外面以外のものが写っている。(『全東洋街道』(下)279P)

バルテュスという名前から離れて純然たる写真として鑑賞するにはややそぐわない本展ではありますが、上野の『バルテュス』展の余韻に浸りつつ、彼の作風の背後にある「何か」を鑑賞する、――という目的であれば、なかなかに満足できる展示ではないでしょうか。バルテュスの絵画のポージングは晩年へと進むごとに、より柔軟なものへと変化していっているような気がするのですが、今回のポラロイドから何となくそのあたりの作風の変遷の所以を知ることができたような気がします。また、こうしたポロライド撮影においても、ライティングに異様なこだわりを見せる彼の偏執ぶりを知ることができたのは収穫でした。九月七日迄。まだまだ先ですが、上にも述べた通り、上野の『バルテュス』展の余韻があるうちに観に行った方が満足度は高いと思います。