H.A. / 薛西斯

H.A. / 薛西斯個人的な印象ではあるのですが、台湾ミステリ史上最大の問題作ではないかと。そうした意味では、まさに島田荘司推理小説賞だからこそこうして世に出ることが叶った作品ともいえます(普通の出版社だったら刊行にかなり躊躇した筈)。詳しいあらすじについては、昨日の『熱層之密室』の感想と同様、以前のエントリに眼を通していただくとして――。本作最大の特色は、やはり作者自らがフーダニットとホワイダニットを放擲して、オンラインゲーム世界における「殺人」という意想外な謎のハウダニットに特化したその趣向でしょう。犯人側と探偵=被害者側に分かれてお互いのチームが殺人と謎解きを行うという展開が三度繰り返されるのですが、三つの殺人のトリックそれぞれが違った趣向を持っているところが素晴らしい。

あくまでオンラインゲームの中で描かれる物語世界ならではの、独特のルールによる縛りから犯人側の犯行方法を完全な理詰めで解き明かしていく第一の殺人では、やはりその精緻なロジックに注目でしょう。そして個人的にもっとも惹かれた第二の殺人では、ファンタジックな物語世界が描かれるオンラインと、実在世界との境界を陥穽とし、メタレベルでの作為を凝らした仕掛けで意想外な犯行が行われます。第三の殺人の趣向もまた、この技法は第二の殺人の近いものながらも、これもまた十分に「現実世界」においても実行可能な方法といえるでしょう。

――そうした、作者自らが傾注したハウダニットは技巧面でも相当に見るべきものがあるわけですが、問題は、――というか相当に議論を呼びそうなのは、こうした三つの殺人ゲームの外側に凝らされた「小説」としての構造でしょう。フーダニットとハウダニットを完全に棄てて、あくまでハウダニットに特化した”長編”小説という物語は、台湾ミステリ史上類のないものであるわけですが、日本の本格ミステリーにおいても、たとえば密室殺人のトリックに特化したハウダニットの”短編”小説であれば、黄金期から今にいたるまで数多くの傑作が書かれていることは周知の通り。短編であれば密室のトリックが推理によって繙かれてハイオシマイでも読者はそれ”だけ”で満足してしまうとはいえ、これが長編小説ともなればそれなりの紙数が用意されているわけですから、犯行方法のハウダニットだけでは物足りず、やはり登場人物たちの人間ドラマを期待してしまうというのがごくごく普通の読者の反応ではと思ってしまうのですが、いかがでしょう。

本作では、上に述べたハウダニットに注力した三つの殺人のほか、現実世界でこのオンラインゲームの創設にかかわった人物の死がさらりと描かれています。これもまた上にも述べたごくごく普通の読者であれば、犯人と探偵=被害者に分かれてオンラインで頭脳戦を戦う彼らがゲームを進めていくうち、この人物の死の真相に気がつき、――なんてハリウッド映画を彷彿とさせる展開を期待してしまうのもまたごくごく普通の反応ではないかと思ってしまうわけですが、しかしながら本作では、そうした現実世界と、殺人が行われるオンライン世界はいっさい交わることがありません。また敵味方に分かれた彼らが「戦う」のはあくまでオンライン世界においてのみであり、オフラインの日常生活においては、犯人側の女性が風邪をひいたら探偵側の男がお見舞いに訪れたりと敵意もナッシングでフツーのお付き合いをしているギャップが不思議な浮遊感を醸し出しています。

本格ミステリーにおいて、フーダニットとホワイダニットの解明は登場人物たちの隠された人間ドラマを明らかにするために有効な要素として作用することは間違いなく、本作ではこの二つの謎を完全に放擲したことの副作用として、登場人物たちに感情移入し得る人間ドラマが希薄ではないか、――というのが個人的な感想であったりするわけですが、果たしてそうなのかどうか――。

例えば『十角館の殺人』が刊行された当時、この作品は「人間が描けていない」と痛烈な批判に晒されたわけですが、今になってみればこの作品は「人物記号化表現」という新たな技法を用いた先鋭的な作品であり、当時の「人間が描けていない」という批判がいかに的外れなものであったかということはすでに歴史が証明している、――という御大の主張から新本格ミステリー黎明期の当時を振り返ってみれば、フーダニットとホワイダニットを放擲してハウダニットに特化した戦略を採用した本作もまた「新しい本格ミステリーの形式」を示したものとはいえないだろうか――。

オンラインでの頭脳戦を繰り返していくうちに現実世界での死の真相が明らかになっていき、――という、いかにもハリウッド映画的な物語の展開を期待してしまう、と上には書きましたが、こうした「読み方」や「期待」こそはロートルの前近代的な、古くさいものであり、新世代の読者はそうした「読み方」や「期待」など微塵たりとも抱いておらず、むしろ本作は、そうした旧態依然とした読者に阿ることなく、新世代の読者に向けて開かれた新しい本格ミステリーの形式とはいえないだろうか――。

さらに本作では、オンラインゲーム世界で「殺された」探偵=犯人側の登場人物が「死」を実感するシーンが描かれているのですが、これもまた新本格黎明期であれば「コンピュータ上の死なんてばかばかしい。これだから若者は……」などと一蹴されたのではないかと邪推してしまうわけですが、こうした描写もまた、実際の死を知らない今の若者にとっては、テレビに映し出される(つくりものを含む)「死」やオンラインゲームの「死」の方が、現実世界の「死」よりも遙かに身近でリアルなものと感じており、それが小説で描かれることも何ら不思議ではない、とはいえないか――。

二十五歳という若き異才によって描かれた本作は、もしかすると、――と、ここで自分は考えてしまうわけです。この作品は、古い感性でしか本格ミステリーを読めないロートル世代の喉元に刀の切っ先を突きつけ、新しい世代の感性を甘受し本格ミステリー界隈に留まるか、それとも新世代の書き手と読者たちに本格ミステリーというこの地を譲り渡しておとなしく退場するか、――そうした究極の選択を迫っているのではないか、と……。

その一方で、ハウダニットに特化したという本作は、オンラインゲーム世界という現代的な装飾を纏いながらも、その趣向は密室トリックの解明に特化した黄金期の本格ミステリーと何ら変わりの無いものではないか……この作品が新しく見えてしまうのは、オンラインゲーム世界という、ロートル世代がついてこれない装飾を纏ってるからに過ぎず、その外観に惑わされているだけではないか、――という思いが拭いがたく残っていることもまた事実。とにかくこの作品については『十角館の殺人』と同様、多くの人たちに読んでいただき、大いに語ってもらいたいと願ってやみません。批判も大いに結構。しかしながらその批判は同時に『十角館の殺人』の先鋭的な技法を批判した当時の方々と同様の末路を辿ることになるやもしれないことをお忘れなく、――と軽く脅してはみましたが、個人的には苦手な作風であったことは正直に告白しておきます(爆)。批判と受容ともどもかなりの覚悟を必要とする本作、――もしかしたら、この作品の真の価値は未来に委ねられるのかもしれません。まだまだ色々と語りたいことはあるのですが、これくらいにしておきます。いずれにしろかなり取扱注意、ということで。

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