パパ / 岡部 えつ

パパ / 岡部 えつまさにしみじみ佳い、という言葉が相応しい逸品でした。前作『残花繚乱』のドラマ化ですっかりメジャーとなってしまった岡部女史ですから、今回は怪談ではなく『残花繚乱』の路線で来るだろうなというのは予想していたのですが、確かに怪談ではない、あくまでフツーの小説ではあるもののちょっとアプローチが異なってい、その予想は良い意味で裏切られました。この点については後述します。

物語は、アメリカで知り合った娘っ子との腐れ縁で、主人公の年上女性がズルズルとメンヘラ女の自分探しに付き合わされる話、――なんてまとめてしまうと何だかなんですが(爆)、作中で大きなイベントは発生せず、一九九四年のニューヨークでの出逢いから、二〇一五年の東京にいたるまで、長い時間軸での二人の関係とその周辺との人々との話をただひたすら淡々と描いた物語です。

ジャケ帯の裏には「気ままなお嬢様が、贅沢な暮らしをむさぼっている。そうとしか見えなかった。彼女の傷の深さを知るまでは」と書いてあり、昨今の一般読者が渇望している「癒やし」感を強烈にアピールしていることが感じられるわけですが、本作では主人公の一人称による語りで構成され、腐れ縁のメンヘラ女(贅沢な暮らしをむさぼっているかに見える気ままにお嬢様)と語り手とが、父親に対して喪失感を抱いている趣向に注目でしょうか。語り手はある事故で父親を失っており、メンヘラ女の方は死んでこそいないものの、離婚をして女優ママに引き取られた挙げ句、突き放された育て方をされており、二人のいずれも父親から愛を深く受けていなかったことがささやかな疵となっている。実際、語り手の方は読者に対して堂堂と自らがファザコンであることを告白しているという開き直りぶりなのですが、とはいえ本作では父親と娘との関係が二人の物語に「そのまま」の形で描かれていないところが秀逸です。

本作は、現在である二〇一五年から過去を回想する形で描かれていることが「プロローグ」からも明らかなのですが、その点を考えながら読み進めていくと、第一章の「一九九四年 ニューヨーク」で、語り手がメンヘラ女のパパと出会ってからの、このパパの呼び名については微妙な違和感を覚えることでしょう。もちろんこれは「過去の回想」という作品の結構とともにその後の展開に大きく関わっているのですが、このあたりの技巧の旨さは流石です。「娘」と「父親」という関係性は、本作においてその「属性」のみの単純な形では決して描かれていません。「父親」は時として、また別の人物にとっては恋人にかわり、また誰かが「父親」の代わりにとなる。こうした登場人物たちの関係性を「属性」から切り離して「父性」と表現すれば、――とも思うのですが、そんな単純な、書き割り式の描き方をしていないところが本作の大きな魅力の一つでもあります。

また本作では「父親」というものをその「属性」から単純に「父性」という簡単な言葉に置換できないのにはもう一つ理由があるように思われます。「父親」の喪失とともに、本作では「母親」の喪失もその背景として描かれてい、実際メンヘラ女に関しては、「母性」なき(この人物の背景が女優であるところがキモ)人物が母親であり、父と母の両方から愛情を受けることができていない。そうしたところから気まぐれなメンヘラ女に振り回される語り手も、あるときは彼女の私生活の面倒を見るという「母性」を発揮し、またあるときは、――特にこれは終盤に顕著なのですが、彼女の社会的地位を守るために「父性」をも発揮して、自ら男勝りに異郷へと旅立つことになる。こうして振り回されながらも自らの人生を前進させるために、「母性」や「父性」を超えた行為へと及ぶ語り手の成長ぶりが”淡々と”描かれていることも本作の見所でしょう。

“淡々と”、――と書きましたが、実際、本作では大きなイベントや事件は発生しません。エンタメを所望する読者にしてみればこのあたりに不満を感じてしまうのでは、と危惧されるのですが、岡部女史が「デビュー前から温めて」いながら本作を今まで書かなかった、あるいは書けなかったというのは、処女作『枯骨の恋』から女史の作品を追いかけてきた自分にはチョット判るような気がします。『枯骨の恋』をはじめとする岡部女史の怪談というジャンルの作品であれば、人間とあの世のものとの「関係」を描き出せば、それがそのまま物語になりえる素地がジャンルとしてすでに約束されている。また『生き直し』など、怪談・ホラーという趣向を隠しながら社会派の一般小説に擬態した小説であっても、そこにはクライマックスを用意したり、事件を引き起こすことによって物語を展開させる小説の作法がすでに確立されている。また群像劇である『残花繚乱』においては、それぞれの登場人物の「関係性」に注力してささやかなイベントを繋げていけば、それだけで物語は構造上成立しえたわけですが、――さて、翻って本作のような小説ではどうか。

父親を「喪失」したヒロインやメンヘラ女の心のなかの「欠乏」という、「ないもの」を、大きなイベントも起こさずに、”淡々”とした展開の中で描かなければならない、――その制約たるや相当なもので、「見えない」ものを人間と異界との「関係性」によって描き出すことができた怪談技法の難しさともまた異なります。地味な本作のような風格の小説において、語り手の心を一人称でしっかりと描き出すには相当な習練を必要としたのではないでしょうか。ノーマルな本読みであれば、「もっとでっかい事件とかをド派手に起こしてサ、そん中で語り手の成長を描いていけばいいジャン」とシンプルに考えるのでしょうが、敢えてこうした難しい作風を選択した岡部女史の心意気に自分は感じ入った次第。『残花繚乱』が一つの大きなターニングポイントであったことは否定しませんが、小説技巧の難易度という点では、本作の方が遙かに到達点は高いのではないか、――というのが個人的な感想であります。まあ、誰も承認してはくれないでしょうが(爆)。

なお、ジャケ帯では「ラスト、落涙必至の感情が押し寄せる、熱くて静かな傑作小説」とあるのですが、個人的にはこのラストに大きな感慨は湧きませんでした(苦笑)。むしろ、ヒロインがメンヘラ女のいる異国へと旅立つ途中、――飛行機の中で「父の姿を見る」(これがどういう意味かは是非とも本作で確認していただきたいと思います)ところに”落涙”してしまったのはナイショです。

というわけで、地味ながら非常に素晴らしい、まさにしみじみ佳いという読後感に浸ることのできる逸品でありました。『残花繚乱』の華やかさを期待するとちょっとアレですが、『枯骨の恋』から岡部女史の作風の変遷と同時に、”決して変わることのない”女史の小説の真髄に知悉しているファンであれば、必ずや愉しむことができる一冊といえるのではないでしょうか。

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