少女たちは夜歩く / 宇佐美 まこと

怪奇幻想の粋を極めた驚嘆すべき傑作。しかしこうして昨年刊行された作者の作品群を見渡してみると、どれ一つとして同じものはないという、作者の抽出の多さにはただただ驚くばかり。本作は怪談作家としてスタートした作者の力量をフルに活かしつつ、ミステリ的な技法をも用いて人物と怪奇事象の相関を描いて見せた逸品でありました。

収録作は、小悪魔女のフシギちゃんが山ン中で出会った元センセイにつきまとって破滅への道を開いてみせる「宵闇・毘沙門坂」、修復絵画の隠された絵図が恐るべき呪いを引き寄せる「猫を抱く女」、病に倒れんとする男の復讐心がコガシン先生大歓喜の気持ちワルイ怪異を大開花させる「繭の中」、妄想が生みだした動物の怪異譚「ぼくの友だち」、“視える”女の霊力が呼び寄せる奈落と怪異の現出を描いた「七一一号室」、猫探しが転じて底なしの森に出現した怪物の正体と隠微な事件とは「酔芙蓉」、同僚女に子育てを押しつけられた男の受難がラストのマジック・レアリズム的幻想へと転化する「白い花が散る」、フシギちゃんがしつけた森の中に棲むあるもの「夜のトロイ」など、全十編。

それぞれは独立した短編ながら、最初の「はじまりのおわり」で時間を宙づりにして、ある語り手によって語られる謎めいた冒頭から読み進めていくうちに、登場人物たちと時間軸が次第に明かされていく構成が心憎い。狂気を秘めた小悪魔チャンが、山の中で再会した元センセイを籠絡して、彼の家庭を崩壊させてしまう「宵闇・毘沙門坂」はラスト・シーンがややぶつ切りで終わっているものの、後半のある物語に絡めてその後日談が別の語り手によって語られるのですが、こうした全体の相関図が次第次第に明らかにされていくので、まったくもって目が離せません。

続く「猫を抱く女」は、妻である女が、旦那の家に伝わる呪いの絵の修復を手がけるものの、その絵の後ろに描かれていたおぞましき“あるもの”の正体を曖昧にしたまま、いきなり怪異へと取り込まれてジ・エンドとなる幕引きが恐ろしい。そしてまたこの“あるもの”が不可思議な繋がりを持って後半の作品へと継承されていく構成がタマりません。

「繭の中」では、この前の逸話に登場したある人物の血縁者の視点から、その後の顛末が語られていくのですが、ここではそうした相関以上に、主人公の幻想的な変容が美しくも気持ちワルイ。これには、気持ち悪さで日本の怪奇漫画の頂点の一つをなす怪作長編の作者であるコガシン先生も草葉の陰で大歓喜しているに相違なく、――というか、これってタイトルの「繭」からも想起される通り、作者である宇佐美氏は完全にあの作品をリスペクトしてこの短編をものにしたのではないかと推察されるわけですが、実際のところどうなんでしょう?

「ぼくの友だち」と「夜のトロイ」には、いずれも森の中に棲むあるバケモノが登場するのですが、このバケモノの姿といい、鳴き方といい、とにかく想像するだに気持ちワルイ。

最後の最期、「はじまりのおわり」と対になる「おわりのはじまり」で、物語全体の時間軸が明らかにされ、語り手の真の正体もまた繙かれてしまうのですが、このあたりはやや氷河分かれるところかも知れません。個人的にはちょっと説明過多かな、という気がするのですが、最近の読み手にはこのくらい親切でないと厳しいのかなァ、……とも感じたり。

「繭の中」の人物の変容した姿が、タイトル通りのマジック・レアリズム的な幻視力で描かれるラストと飄々とした語り手とのギャップが素晴らしい「白い花が散る」や、前の逸話で描かれた人物の奈落と破綻が、別の視点人物によって犯罪構図へと習練していく「酔芙蓉」など、幻想怪奇としての強度が凄まじい逸品揃いの本作は、怪談作家としての力量を遺憾なく発揮させた傑作として、『骨を弔う』『熟れた月』とともに必読といえるのではないでしょうか。とくに『るんびにの子供』から『入らずの森』へと変化していった初期の作者の雰囲気がメッチャ好みというファンであれば大満足できること請け合いです。超オススメ。

骨を弔う / 宇佐美 まこと

るんびにの子供 / 宇佐美 まこと

入らずの森 / 宇佐美まこと

0 comments on “少女たちは夜歩く / 宇佐美 まこと

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。