最終上映 / 石黒 達昌

「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」を読了したときにフと石黒達昌のことを思い出し、そういえば積読本の中に本作があったなァ、――ということで調べてみたら、昨年の十一月に本作がReader™ Storeに上がっていたので迷わずゲット(紙本は積読されていても電子版があればそちらを新たに購入する主義)。第8回海燕新人文学賞受賞作である表題作「最終上映」と、愛するものの死を作者ならではの淡々とした理科系の筆致で見事に描き出した傑作「ステージ」を収録。

表題作はデビュー作ということになるのでしょうか。個人的には「人喰い病」や「雪女」のような作風を期待していたので、あまりにフツーに“文学”しているのにチと面食らってしまったものの、こちらはいわば前菜みたいなモンで、注目すべきはやはり一冊の大部分を占める「ステージ」でしょう。表題作と「ステージ」ともに、語り手と縁のあるものが死へと向かう途上を淡々と記した物語ながら、表題作は友人、「ステージ」は恋人という違いがあるゆえ、語り手が医者らしく自身の体験を綴っていても、そこからにじみ出る内心の重みに違いが出るのは当然至極。

特に「ステージ」では、語り手と同様に医者でもある彼女と知り合ったころの逸話と、発病から闘病のシーン、さらには亡くなった彼女が解剖される場面がカットバックによって展開していくのですが、早々に彼女が解剖の検体となることが明かされる構成が凄まじい。そこでも彼女の死という現実を受け入れる前の主人公の心情が語られることはなく、ひたすら淡々と医学的知見も交えながら綴られていく趣向は作者の真骨頂。

あくまで医者として、闘病中の彼女を観察しながらそれを脚色なく(?)記述していく語り手の視点が、恋人と医者の間で振幅しながら、物語が死と解体へと突き進んでいく展開は最高にスリリング。この作品の刊行は91年とのことですから、現代と比較すれば癌の治療方法もまだまだというところもあってか、薬をガンガン投与されて悶絶する彼女の様態と、死へと近づくにつれて壊れていく彼女を見守りつつ、それでも医者として投薬治療をエスカレートさせていく語り手の心情とのコントラストには胸に迫るものがあります。

そして助からないと判っているのに、それでも過剰な投薬を繰り返す主人公が、彼女の様態を淡々と記述しつつも、その苦悩を医者と恋人との二つの心情を混淆させながらさらりと書き流してあるところが素晴らしい、――というか恐ろしい。昨年後半、愛犬の介護に悪戦苦闘した体験から未だに立ち直れない自分としては、この語り手の心情の吐露にはかなりクるものが多く、例えば、

そして自分の手が届かない場所に行こうとしているマイを逆に煩わしく思い始めていた。

ここに来る事が嫌悪感を催させるという事実自体に、嫌悪感をいだいた。

というくだりなどは、喉元に刃の切っ先を突きつけられたような心地さえしたことを告白しておきます。

そして死に向かいつつある彼女の「私が慣れたのは、死んでも体が残っているということよ。きっとそうだわ」という言葉と、語り手自身による解剖によって彼女の死の“後”の様態が綴られていくシーンへの繋がりなど、一直線には進まない結構によって彼女の死因が探られていく後半、あれほど彼女を苦しめていた病魔とはまったく異なる領域から明かされる彼女の死の真相が孕む意外性とその宿業など、小説的構成としてはこれが“正しい”のかどうか、正直”文学”に疎い自分には見当もつかないのですが、ともあれこの物語に、愛するものを病によって喪失した今、出会うことができたのは僥倖だったような気がしています。

上にも述べたとおり、短編とは言え「人喰い病」や「雪女」のようなSF風味の強い物語ではないので、自分のように「人喰い病」や「新化」を読んでいる読者ほど、最初の「最終上映」にはいささか面食らってしまう可能性は大ながら、「ステージ」はまた作者の代表作といっていいほどの重みのある一編といっていいのではないかと。「人喰い病」と「新化」の次なる一冊としても十分に愉しめるかと思います。

雲南省スー族におけるVR技術の使用例 / 柴田 勝家

人喰い病 / 石黒 達昌

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