ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説 / 路那 (3)

『おはしさま 連鎖する怪談』には掲載できなかった台湾のミステリ評論家・路那女史の手になる「ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説」を日本語化の続きです。前の記事にも書きましたが、いずれも豪快にネタバレしているので、必ず『おはしさま 連鎖する怪談』を読了した後に目を通してください。

ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説 / 路那 (1)

ともに夢路を紡ぐ、そのとき――『おはしさま 連鎖する怪談』解説 / 路那 (2)

 


 

夢の紗幕の向こう側を覗いてみると

それでは、これを読んでいる読者の方に、私がこの企画で目にした興味深いことについて話を進めていこうと思う。

なかでも私の興味を惹いたのは、各章に分けられた連作短編であるがために、作家同士のコミュニケーションが概して不足していたにもかかわらず、大宇宙の意志なのか、あるいは後続の作家が前走者の意図をくみ取ってのゆえか、共通の創造的要素を超えた微妙なテーマの繋がりが感じられることだった。ふたりの女性作家の物語を見てみよう。薛西斯「珊瑚の骨」と夜透紫「呪網の魚」には、「罪悪感」が暗い影を落としている。「珊瑚の骨」では、語り手の程六兩が、クラスメートである海鱗子を先祖から伝わる信仰から解放してあげたいという思いを募らせ、箸を盗むという大胆な行動に打って出る。しかしそれは間接的に海鱗子を海に突き落とす惨事を引き起こし、彼女は十五年にわたって罪悪感に苛まれることになる。「呪網の魚」では、主人公の麗娜が、ネット民たちから恋人の死について殺人犯の嫌疑をかけられる。命の危険を感じながらも、彼女は果敢に恋人の死の真相を探ろうとするが、調査を進めるうち、彼女は次第に自身の何気ない行為が悲劇の種となっていたことを知る。心のわだかまりとなっていた罪悪感を手放すか、あるいはそれを受け入れ耐え忍ぶかという相違はあれど、この二編は密やかな響きを伴って共鳴しあう。

こうした共鳴は、三津田信三と瀟湘神ふたりの男性作家においても現れている。三津田の「おはしさま」と瀟湘神「鰐の夢」における登場人物は、それぞれ性差別ともいえる抑圧に苦しみ、それに対して彼女たちは思いもつかぬやり方で反抗してみせる。「おはしさま」の雨宮里深は兄からの虐待を受けており、そこから逃げることも、また誰かに助けを求めることもできない絶望のなかで、「おはしさま」による兄の殺害を企てる。彼女と同じように、「鰐の夢」の主人公である「作者」と義妹にあたる高淑蘭は、家長制による性差別と不公平な扱いにさらされている。そして最後、小学生の高淑蘭は魚藤茶を用いて兄の殺害を目論むのだが――ここで興味深いことを指摘しておこう。怪談集となる本作において、決定的な証拠の存在する殺人事件は、高淑蘭の毒茶事件と龔霆聰の死の二つだけだということである。

これと同様、「珊瑚の骨」と「呪網の魚」の二編においては、ジェンダーにまつわるテーマが、まるで示し合わせたように描かれている――「珊瑚の骨」では、程六兩が占い師から「豬不肥、肥到狗」と告げられたエピソードがさらりと書かれているが、「呪網の魚」における主人公の林麗娜が恋人の死後、ネットでいわれなき中傷を浴びせられる仕打ちはより深刻だ。ジェンダー的視点において興味深いのは、男性作家は物語の結構を通じてこのテーマを強調しているのに対して、女性作家は日常の些細なエピソードを通じて細やかに描き出している点である。こうした男女の作家による違いは、ジェンダー問題を考える上で議論の俎上に挙げることができるかもしれない。各編に連なる隠された共通点は実は他にもたくさんあるのだが、紙幅の関係もあり、ここから先は読者の想像に委ねることにしよう。

上に述べたような一致点のほか、ここで取り上げるべき共通の要素は、「箸」と「左手に魚のような赤い痣のある人物」ということになろう。執筆陣はこれらにどのような役割を持たせているだろう? そしてそれらは物語が進むにつれて、どのように変わっていったのか。これは本稿に取りかかる前から、私がもっとも気になっていた点でもある。

前半の三編はそれぞれ日本、台湾と香港を舞台とした物語で、台湾の読者がどのようなものを読みたいのかを作者の想像に委ねて書かれたものである。三津田信三の「おはしさま」のなかでは、箸は食器として、また呪具として、あるいは凶器に使われる。そして物語の冒頭に「箸で両目を突いて自殺した、中学生の幽霊」という薄気味悪いイメージが提示されると、いよいよ腳尾飯が登場する――台湾の読者であれば、二〇〇五年に発生した、台北市の議員・王育誠にまつわる「腳尾飯事件」を覚えているのではないか。王育誠と記者たちが結託して、葬儀のあと腳尾飯をレストランに運んだでっちあげ事件である。この事件は、食の安全に関わるものとして、すぐさま耳目を集めることとなった。しかし、レストラン側が事実を明らかにするにつれ、彼に対する疑惑が浮上し、それが後に「不正を暴く」という美名のもとに行われた自作自演だったことが判明したわけだが、この事件をきっかけに、腳尾飯やそれに似た「捧飯」といった葬儀の際の習俗が世間の注目を浴びる事になったのである。

台湾の腳尾飯は、屋外で飯を炊く習慣と変わりない。枕飯については三津田がその習俗の細部について彼なりの解釈を加えているが、当時の報道から事件の顛末を知るにつれ、身の毛もよだつものだった。これと三津田が私たち台湾の読者に与えた印象は同じであろう。三津田は日常の事物や習俗を題材に採りながら、背筋が凍るような、それでも先を読みたくなる物語を巧みに紡ぎ出している。

死者を祀る習俗や兄妹の悲劇と記憶を巡る哀しい物語が「おはしさま」の背景となっている。理詰めで考えても、儀式の参加者が果たして実在する人物なのか、そして夢の中での死が現実世界での死を意味するのかを実際に証明することは難しい。とはいえ、「左手にある魚のような赤い痣」は、お互いに殺し合うことを避けられない者たちの印となっていることは確かで、それはひとつの奇妙な共同体といえよう――彼らは同じ秘密を共有しながら、それぞれが自分の秘密を抱えている。そして、その秘密を守るためには、他人の願望を破壊しなければならない――「魚」の痣は、夢を実現するための入場券であるとともに、まさにいま始まろうとする殺人劇のゴングでもある。主人公である雨宮里深は親友となった転校生の音湖からその儀式について聞き出すが、二人が通わせた淡い思いは儀式の炎によってたちまち消え失せてしまう。雨宮と音湖の間に存在したであろうもの――それは儀式によって消えてしまったものであるわけだが、それこそは「珊瑚の骨」の物語における核心でもある。

「おはしさま」を定番の怪談とすれば、「珊瑚の骨」は混じりけのない恋愛物語といえよう(もちろん謎と推理というミステリ要素を含んでいるので、単なる恋愛物語ではもちろんないわけだが)。別の意味で、六兩と海鱗子のふたりが心を通わせるうちに生みだした関係は、雨宮と音湖の間にあったかもしれないものでもある。

中学生である六兩が海鱗子に興味を抱くきっかけとなったのは、願いを叶える儀式だった。そして儀式にまつわる謎を論理によって解き明かしたいという思いが膨れ上がるなかで、六兩がまず気になったのは、その儀式に対してあまりに恬淡とした海鱗子の態度だった。しかし彼女が海鱗子との関係を深めていくうち、彼のその淡々とした態度の背後には激しい感情が渦を巻いていることを彼女は知る。竹製の箸が珊瑚のものに変わり、謎は広範な儀式から一つの事物へと収斂していく――「珊瑚の箸」の由来は果たして事実なのだろうか? 「珊瑚の骨」は、珊瑚の箸に関わる一連の謎を巡る物語であり、そこには親子と友人双方の感情的な力学が存在する。

「左手に魚の形をした痣のある人物」は「おはしさま」の儀式に参加したものの印であり、六兩はこの印を利用して、ある仕掛けを思いつくのだが、この展開は、かつて台湾の学校に存在した抑圧的な環境を的確に表している。興味深いのは、夢のなかに出てくるすべての参加者に委員の名前がつけられているにもかかわらず、そこには台湾人になじみ深い「風紀委員」が存在しないことだ。読者は、これが日本と台湾の文化的な相違を如実に表していると考えるであろうか?

もし「おはしさま」が儀式の参加者をそれぞれの班の委員に設定していなければ、日本と台湾の学校運営の違いをここまで意識することはなかったかもしれない。台湾の近代教育は、日本の植民地時代にルーツがある。校内においては権威の象徴としての印象が強い、例えば「司令台」や「操場」という言葉は軍隊用語を起源とし、またその暗喩として用いられてきた。軍国主義思想を明確に継承したこれらの言葉は、国民党政府においても引き続き使用され、旧植民地政府のそれと似た訓告をはっきりと示している――すなわち、学生はよき軍人たれ、自らの考えなど持つことなかれ、言われたことには従うべし、である。周知の事実ではあるが、私が気づかなかったのは、こうした軍国主義思想を背景に持つ精神的状況が、学校というハードウェアのみならず、教官や値星官といった学校統治のレベルにまで浸透し、教室という最小単位の集団の運営にまで隈なく及んでいたことであった。そう、そしてその象徴こそが「風紀委員」なのである。

風紀委員という人物は、仲間である生徒と教師の間に立ち、時には「孫の手」のようなおせっかいな役割を果たさなければならない――私の記憶にあるのは、そんな難しい立場である。風紀委員といえば、教師から教室の秩序を維持する公的任務を委ねられた人物であり、かれは「秩序を維持するためには権威が必要である」という考え方を系統立てたやり方で私たちに叩き込み、同時にそうした権限によって学生間の結束をも阻害する。

「生徒によって生徒を制する」手法は、風紀委員という役職において如実に示されている。風紀委員の設置によって、クラスの対人関係に内在する権威と非権威の対立が、ある程度の悪化を見るのは当然であろう。「外でも内でもない人物」――すなわち、生徒でありながら教師から権威を委ねられた風紀委員という存在は、その意味ではクラスの外の人間とも見なせるが、それでもかれはクラスの一員である。この教師と生徒の板挟みにある状況は、風紀委員が心に留めておかなければならない事柄であろう。一方で「孫の手」による学内生活への介入は台湾の学生にとっては最も迷惑な行動であり、権威の側からの監視を意味する。そのため程六兩が箸を盗む話を海鱗子に切り出したとき、箸を盗んだ行為そのものより、彼の手に刺青があると教官に告げたことの方が、よりいっそう彼女の罪悪感を深めることになっている。

「左手に魚のような赤い痣のある人物」という設定はもとより、薛西斯は「魚」もまた独立したモチーフとして用いている。海鱗子という名前も適当につけられたものではない。彼には魚の形をした痣があるだけではなく、この世とあの世のはざまに立ち、彼岸の向こうを視ることができるがゆえに眼を閉じることができないのだ。それゆえ彼は魚と呼ばれている。

「珊瑚の骨」の終盤、六兩と海鱗子ふたりによる王仙君の存在を巡る議論は、二つの相異なる立場から激しいぶつかり合いを見せる。もともと王仙君の存在をつゆほども信じていなかった六兩が今度はそれを認める論陣を張る一方で、以前は王仙君の存在を疑わなかった海鱗子が理性に基づいたロジックによってその存在を打ち消そうとする。

物語が進むにつれ、真摯な六兩が、実際は海鱗子の母親と同化していることに読者は気がつくことだろう。彼女は自分がこの事件に介入したことによって、王仙君の祟りを受けたことを認める。海鱗子は、除霊に代わる行為によって、問題の解決を試みるが、六兩はさらなる罪悪感に苛まれることになってしまう――ここで、王仙君は、もともと自身の無力感や罪悪感を隠蔽するための存在だったことが明らかにされ、海鱗子は、中学生のときには認めることのなかった自身の弱さと対峙する。いったい誰が、誰の霊を祓ったのか。簡単には答えることのできない問いであろう。
この物語の終盤における緊張感は忘れがたい印象を残す。

夜透紫「呪網の魚」に、前二編と興味深い共通点があることは上に述べた通りだ。この作品と「おはしさま」は、虚実の怪談めく雰囲気を湛えた結末を持つ。その一方、「珊瑚の骨」とは、理性による「迷信」の解体を試みるものの、逆に「迷信」からの反撃を受けてしまう点が共通している。

この物語において、「箸」は食器であるが、同時に呪具と凶器としての機能を併せ持つ。「おはしさま」と異なるのは、「呪網の魚」における凶器が箸ではなく、食材であるという点であろう。「呪網の魚」において、箸は呪具としての機能しか持たないが、「おはしさま」とは異なり、箸は呪具でありながら、終盤には推理の構成要素となっている。ここは作者の個性であろう――ちなみに私が夜透紫のライトノベルズ『小暮推理事件簿』でもっとも気に入ったのがこの趣向であった。

「呪網の魚」における「魚」もまた多義的な意味を持ち、それは物理的な存在でありながら、同時にメタファーにもなっている。聶曉葵は生まれつき「左手に魚の形をした痣のある人物」であり、学校では「小魚」と呼ばれている葉思妤と親友だった。これは聶曉葵が鬼新娘を名乗るときに、「赤いろの小魚が闇を泳いでいるように見える」画像をアバターに設定していることの伏線にもなっている。

「珊瑚の骨」を恋愛物語とすれば、「呪網の魚」は呪いの物語といえよう。この呪いの源泉は一見すると理性的であるように見えるものの、仔細に見れば、その理性は多分に独善的なもののように見える――理詰めの企画で鬼新娘の呪いを生みだした「時計仕掛けのレモン」、呪力によって友人の家族を死に追いやろうとした葉思妤、自分を正義と疑わず生き残った者たちに罵声を浴びせるネット民。彼らはすべて「珊瑚の骨」の程六兩と同じ過ちを犯している。

瀟湘神「鰐の夢」において、箸は単なる食器や呪具、凶器ではなく、文化的なものとして語られる。一九七○年代には、人文学を席巻した「文化転向」によって、高尚なエリート文化を研究対象としていた研究者たちの関心は、一般大衆の生活を掘り起こし、物とその物に関わる歴史や文化、さらにはそこから立ち現れる集合意識に加えて、文化に内在する固有の歴史をひもといていく手法に移っていった。「鰐の夢」で、瀟湘神は「作家」の講演を借りて、前三人の作家が提示した様々な箸のありようについて説き起こしていく。もちろん瀟湘神はそこに自分なりの一本を加えることを忘れてはいない。儀式とその縁起を通じて、「食器」と「呪具」を重ねて「復元」し、「弔いの儀式」の総体へと昇華してみせる。

前章の物語と繋げることで、瀟湘神は一連の「左手に魚の形をした痣のある人物」を登場させている。ネットでおはしさまの儀式に参加した後、その痣が出現した張文勇の息子である品辰、そして張文勇の前妻にあたる高淑蘭の息子「海鱗子」がそれだ。作中で次々と真相を明かしていくことで、くだんの儀式における「弔い」の要素を引き出し、瀟湘神はもうひとりの「左腕に魚の形をした痣のある人物」を生み出してみせた。それこそはまだ生まれていない「お魚」である。

読者は「お魚」という言葉を聞いて、クラウド・ルーの「お花畑から来た少年」を思い出さないだろうか? この曲は、彼の祖母に捧げられたものだが、母が子を思う気持ちはこの物語にもふさわしい。

この渓流に放たれたお魚が誕生したいきさつを辿ると、それは家父長制下における女性の権利の侵害に突き当たる。彼が生まれた後に姿を現した鰐の島は、家父長制の概念に従って行われた国家体制による自由の侵害に依拠したものだが―――九九六年から二○○○年の間に執行された碧山、永安、格頭という三つの村に対する立ち退き命令は、二○○二年には最高裁の第五四二号によって違憲とされた。とはいえ村はダム湖の底に沈み、そこに現れたのが鰐島だった。判決後、かつての村民が合法的に村に帰郷することができるようになっても、彼らの帰る場所はすでにない。殺されることを逃れた「お魚」と、湖に現れた鰐島は、その源を同じくする。とはいえ同じ被害者という立場にあっても、人はすぐさま被害を受けた他者を同じ立場に立って理解できるわけではない。「作家」の養父母は孫を溺愛していたが、彼らは養女に対する虐待をはっきりと意識しているわけではなかった。それと同様に、子どもたちの死体を隠蔽した「作家」もまた、彼ら子供たちの親の痛苦を理解することなく、そうした者たちの一人となってしまっている。

くだんの儀式の縁起がいよいよ明らかにされ、概念を歪曲する人類の力が強大なものであることを読者は思い知らされる。陳浩基は「魯魚亥豕」で、そうした歪曲を古代の神話にまで遡ってみせる。食器としての「箸」という概念は、その端緒からして人類の誤解に基づくもので――それは「異界の者」がふるさとへ帰るための門だったのである(三津田信三の「おはしさま」において、長箸の空間に出現する「おはしさま」と見事に呼応している点に注目したい)。そのかたちが「異界の者」の手指に似ていたことから、箸を用いる食文化圏が形成されたのだ。また「箸」と同様の誤解は、神話の中における「禅譲という制度」においても生じていた。この帰るために列をなして乗り物に乗るというシステムは、その背景を知らない者の目には美談と映り、それは帝制へと変化を遂げ、何世紀にもわたって英雄たちが地位を争う目標となった。やがてそれは壊すことのできない文化に転じたあげく、恐ろしい悪夢へと変容する。「魯魚亥豕」には、「鰐の夢」における体制批判だけでなく、そこからさらに踏み込んだ批判が行われている。とはいえ、「魯魚亥豕」は娯楽性をなおざりにした批評的な物語などでは決してない。この作品が巧みなのは、そうした物語の設定を通じて、先天的な痣と後天的な儀式によって獲得した「魚の聖痕」を一つの起源を持つシステムへ統合して見せたことであろう。巨魚であった鯀が箸の門を通じて龍へとメタモルフォーゼし、天に昇っていったその刹那は、魚と龍という二つの共通項が五編の物語で様々な変化を経て最終的な融合を遂げた瞬間でもある。

パソコン上で本作を読了したとき、そのシーンは本作における暗喩であると私は感じた。「異界の者」である作家と編集者が苦難のすえ、箸の形をした珊瑚の門へと辿り着き、最終形への変化をついに完成させたのである。

その海の涯の見える場へ、いの一番に立つことができた私は歓喜とともに、ひそかにその栄誉を噛みしめていた。


作者紹介・路那
台湾大学台湾文学研究所・博士課程在籍。「疑案辦」副編集長、台湾推理作家協会会員。謎は好きだが、推理は苦手。最大の幸福は物語の中にのめりこむこと。一生涯読書に対する情熱を失わないようにしたいと考えている。