江戸川乱歩もいっていますけど、この作がなければドイルもホームズものを書かなかったろうし、アガサ・クリスティーも現れることはありませんでした。彼らが現れなければエラリー・クイーン、ディクスン・カーも現れることはありませんでした。そうなれば日本の江戸川乱歩――このひとはエドガー・アラン・ポーをもじった名前ですが――彼の名前も当然変わったでしょうし、書くものはもっと江戸見世物趣味一色になっていたかもしれません。
もう一つモルグ街が持っていた重要な点を指摘したいと思います。つまりあれを前代未聞の傑作小説として輝かせた条件は何かというと、密室とか名探偵ではないということですね。ここに必ず必要であったものはそれらではなくて、最新科学というものでした。これこそがミステリー――ここでは幽霊物語ということですけど――を論理的な本格ものへと脱却させた主役なんです。
現在の視線ではもうすっかり判りにくくなりましたけれども、つまりあまりに当たり前のことになってしまいましたが指紋、血液型、微物収集といったものは1841年の時点では前代未聞の最新科学であったということです。この観察というものは大変重要です。つまり名探偵と我々が呼んでいる謎解き探偵の人物はポーの時点では実は科学者であったということです。
欧州では科学が登場して市民の態度というものが敬虔な信仰心とか幽霊へのおびえといったものから前進して、論理的になっていったわけですね。ポーの時代、新時代に望まれる新市民の態度は科学者としてのそれになっていたわけです。こういう新市民の態度能力をより効果的に示すために、ポーは敢えて女性の扇情的な惨殺屍体というものを登場させていたわけです。さらには幽霊譚に見えるようにホラー的要素をまとわせていたわけです。そして探偵役はこれら通俗的な要素に一斉惑わされることのない論理的な科学者であるということを示したわけです。
最新科学への信頼あるいは興味といった態度はポーのミステリーを構成するさい必ず必要なピースといっても差し支えがないものです。幽霊好きであるとか屍体愛好癖であるとかそういった要素よりも、これらは一段上位に来るものです。さらに一歩踏み込んで語ると、密室とか殺人とか警察とか私立探偵といった外観的な条件よりも上位に来るべきものです。
もう一つ続いて重要なものは陪審制裁判における陪審員たちへの民主的な開示の姿勢です。警察側は陪審員――つまり読み手に対して、持っている推理判断の材料を残らず開示する。それを裁判の条件ともしたし、これらの小説の条件ともしたわけです。
もう一点この世界初の本格ミステリー小説には大変重要な要素があります。モルグ街の不可解な事件は殺人事件ではなかったということです。殺人事件とは人間が人間を殺すという行為をさします。モルグ街では人が人を殺していないわけですね。あれはいわば不遜、不慮な事故であり、小説のジャンルとしてはむしろ一般小説的であったわけです。すなわち1841年の時点で、本格のミステリー小説は殺人を描くということよりも、恐怖を伴うミステリー現象を描くということの方が上位にあったわけですね。この点はとても重要ですね。なぜ重要かといいますと、1920年代にヴァン・ダインという本格ミステリー作家が現れるからです。
彼によってミステリー、本格ミステリーという文芸の内容がコペルニクス的な変貌を遂げます。ミステリーとは殺人を専門的に描く文芸ジャンルになったからです。彼は、一人の本格系の作家は――もちろん彼はこのような言葉は使いません。なぜなら本格という言葉は日本語であって英語にはないからです――新鮮で創造的なアイディアを背骨にして書ける小説は一人六作程度が限界だろうと彼はいいます。まあ、彼自身に関してはこれは当たっていたかなという気はします。さらにもっとも面白い本格系の作品というのは、このようであるべきだという条件を具体的に示します。作中で起こる事件は必ず殺人事件でなくてはならない。それも一つではなく二つ以上が望ましい。そういうふうにいいます。
そうなるとヴァン・ダインの考え方をもってモルグ街を振り返ると、「モルグ街の殺人事件」は本格ミステリーではないという興味深い結果となります。これは非常に面白い見方であると思います。またこの観点からポーの「モルグ街の殺人事件」を本格ミステリーのスタート地点といわない専門家たちも現れてきているわけです。しかしこの混乱というものは、大変示唆に富んでいます。まあ、ともかくポーとヴァン・ダインとはまったく違う目的をもってミステリー小説を書いていたということです。
それはこう言い換えてもいいですね。二人はまったく違う目的をもった読書を自分の読者にさせようとしていたということです。ヴァンダインは自分の読者に対して犯人は誰かという興味を持って本を読ませようと考えていました。これは読者となった際の彼自身の態度でもありました。これはよく英語で言われるところのフーダニットですね。フーダニットという言葉は英語なんですが、who dunnitですが、これは正確な英語ではないですね。who did itというのが英語が正しい英語だと思います。ですから用語となったときに抽象的になったということですね。それから犯人はどのようにやったのかという疑問が湧くこともあります。これはハウダニット。動機が不明なら何故こんなことをしたのか。こういうふうにも考えますね。これがホワイダニット。
この三つは皆さんも耳になじみがあるのではないかと思います。これは何千冊もミステリーを読むというヴァンダインの豊富な読書体験から導かれた感想であり結論です。つまりミステリーという文化はヴァンダインの時代にはすでに80年という研磨の時間が経過していて、すっかり成熟期に入っていたわけです。これがどういうことかというと、ミステリー小説を手に取れば、この本がどのような種類の物語を自分に提供してくれるかを、読者は豊富な体験からすでに完全に摑んでいたわけです。いま再び新たな一冊に向き合うのならば、この一冊がそれら過去の体験を凌駕するほどの新味を発揮して欲しい――そういうふうに願う段階に入っていたわけです。
ところが19世紀の半ばにも達していないポーの時代には読者はまだまったくこの種の経験をしていません。手にした書物は生まれて初めて読む本格のミステリーであり、モルグ街の一室でこれから何が起こるものか、あと自分がどこに連れて行かれるのか、皆目見当もついていないわけです。密室も女性の惨殺死体も生まれて初めて目にする光景ですから、これから何が起こるのかなんていう発想は湧きません。このような読者にとって「モルグ街の殺人事件」はフーダニットである筈もないし、ましてやハウダニットでもホワイダニットでもない。初体験にそんな余裕はないからです。これから何が起こるのか、この小説自体いったいなんだろう、そういうふうに読者は考えるはずです。
こういう言葉は存在していない、もしかしたら今初めて言う言葉になるかもしれませんが、つまり読者にとってモルグ街のイベントとはホワットダニットなんですね。すれっからしたヴァン・ダイン、読者としてすれっからしたヴァン・ダインと、まるで驚きの性格が違います。このようにポーとヴァン・ダインとは、コインの裏と表、水と油というくらいに異なった方向を向いた書き手です。
これをどのように了解すべきが正法かといえば、本格ミステリーという文芸ジャンルには二つのスタートラインがあるということですね。本格ミステリーとはどのような小説かの定義、また条件、これら皆についても二種類のものがあるということになります。今後の書き手の皆さんは、そのどちらかを選択して仕事をすればいいわけですが、たった今の時点でどちらに将来性があるかということを厳しく追及していけば、それはポーの方であると私は考えています。
なぜならばヴァン・ダインの流儀というものは新時代新世代の書き手たちに極めて深く理解されて、すっかりやり尽くされたという感があるからです。一方でホワットダニットという考え方自体に、今日の我々には大変耳新しいものになってきました。またポーの流儀についてさっき私は述べました。最新科学が重要なファクターとして関わっていたとか、名探偵は新市民としての科学者であったとか、モルグ街では殺人事件はなかったとか、あるいは密室というファクター、名探偵という言葉、これらは最重要な要素ではなかったといった解説は意外なことですが、なかなか耳新しいものになってしまうということですね。
このあたりの要素がこれまであまり説明されることはなかった、あるいは見落とされてきたからということがいえます。たった今の時点でポーがしたように最新科学という言葉を思い出せば、21世紀の科学というものはかつてのような魔法じみた力をまた持ち始めています。また幽霊現象というものを、複数の人々の体験とは考えないで、個人レベルの脳の働きと見なせば、脳のハードをいじることで霊的な現象を今日なら自在に起こせます。ポーのホワットダニットの時代がまた戻ってきているともいえるわけですね(続く)。