島田荘司講演会『本格ミステリーの定義と迷走について』@台湾・金車文藝中心 (4)

SONY NEX-7 +  CONTAX Vario-Sonnar T* 35-70mm F3.4
SONY NEX-7 + CONTAX Vario-Sonnar T* 35-70mm F3.4

前回の続きです。講演内容のテープ起こしはこれにて終了。あと質問が二つあるのですが、これはまた時間ができたときにでも簡単にまとめてみようと思います。

このように本格――日本人作家たちの本格ミステリー追求というものは迂回に迂回を重ねる迷走であったということが今日の視点から判ります。いずれにしてもこの混乱の時代に本格の定義の不在というものが悪く作用したことは事実です。本格の定義がしっかりと存在していれば、乱歩風と本格作風とが混同されることはなかったはずです。こういう迷走の風潮というものは私の『占星術殺人事件』が登場するまで続きました。女性たちのバラバラ殺人を描いた『占星術殺人事件』の登場というものに当時の文壇の分別者たちは顔面蒼白になったわけです。このような作が立場を得たならまた探偵文壇は乱歩さんのエログロ趣味に戻ってしまって、一般から軽蔑の憂き目に遭うと、こういう悪夢の時代に戻ると見えたわけです。大慌てでバッシングを展開したということがありましたけれども、続いてこの作の影響で現れた新本格系の作家たちに乱歩流儀のエログロ趣味といったものは皆無でした。

しかしこの間ヴァン・ダイン風の作風というものは日本ではどうなっていたのでしょうか。日本でもこの方向による創作が書かれていたならば、横暴になっていた清張の呪縛に対してもそれなりに抵抗が出来ていた可能性があります。ところが日本ではヴァン・ダイン風の作風というものはほとんど現れませんでした。それはアメリカの上流階層の洒脱な文化というものですね。石造りの邸宅内で黒い上着の執事にサーヴされたり、白いテーブルクロスのかかったテーブルでナイフとフォークとワインによる食事といったもの、そこで交わされる小粋なジョークとか、プライドの高い女性たち独特の物腰とか言動、食事の後に始まるダンス、こういった暮らしを描くことに日本人は自信がなかったわけです。当時の日本人は畳とこたつ、味噌汁と漬け物の生活に浸っていましたから。三等切符と駅弁という清張世界の方が日本人には遙かに無理がなくてなじみの良いものだったわけです。

しかし日本の本格系作家たちにとってヴァン・ダインへの憧れというものは根強くて、ハリウッド映画の影響もあり、いつかはこういうものを描きたいなという思いはずーっと続いてきていたわけです。そうして自体は平成に届いてバブルを通過して、ここで大学のミステリ研の若い才能たちの登場になります。彼らが行ったことというのは、こういう日本人作家の長年の憧れであるヴァン・ダインの流儀を日本に導入して、大々的に創作をしたということですね。ヴァン・ダイン風の日本化の解釈というものが館ものであり、吹雪の山荘や孤島ものといった閉鎖状況下の中でのゲーム型発想になるわけです。

彼らのうちの体表的人物である綾辻さんという人はそのための画期的な方法を思いつきます。それは人物の記号化表現というものです。人物の風貌とか言動上の個性というものを極力描かないでおいて無個性の記号のように表現してしまうという方向ですね。この方法を採るならばアメリカ上流階級の表現、ナイフとフォークとワインのディナーテーブルとかジョーク混じりの洒脱の会話、プライドの高い白人女性、こいつたものからは簡単に解放されます。さらにいえば吹雪の山荘とか孤島といったシチュエーションもそうですね。こういう場所と状況ならば警察という捜査の専門家も登場し得ないわけです。そうなら鑑識班とかの刑事といった専門職の仕事ぶり、厄介な専門知識も不要になってきます。こういう方法を発見することで日本人は英米に70年遅れてヴァン・ダイン型の本格ミステリーを書くことが可能になっていくわけです。

とはいってもそれは結果であって、この人物記号化表現という方法はヴァン・ダイン主義を導入するための表現として綾辻さんなりミステリ研の才能たちが編み出したわけではありません。綾辻さんの代表作品に『十角館の殺人』という画期的な作品があります。これは彼のデビュー作ですから実際の文章表現の力、あるいは人物描写に関する未熟さはあったと思います。しかしこの手の批判というものが、プロの作家はもっと清張レベルの文章を持ち得なくては駄目だと前例踏襲的にいっているのならば当たっていないわけです。根本的に的外れなわけですね。というのも、この作では彼は人物記号化表現というものを戦略として用いていたからです。このやり方によって彼は犯人を隠蔽していたわけです。綾辻小説というものは性格風貌言動の特徴をあまり細かく描かないことによって大勢の人間を互いに紛れあわさせていたわけです。この事実を考慮しないで人間描写力の稚拙さのみを軽々に言うことは根本的に誤った批判であるわけです。

綾辻さんがこの方法に気づいたのは、京都大学ミステリー研で伝統的に行われた犯人当てのゲーム、これをたびたび通過することによりました。このゲームは朗読によってのみ問題を出題します。こういう条件なので文章の上手さ流麗さ、人物描写のうまさなどは評価の対象にならないわけですね。それよりもできるだけシンプルで飾りのない表現と、これによる効果的な情報の伝達、しかし同時に核心情報の隠蔽、そういったものを達成するものの方が重要だったわけです。

特殊な世界では文学が目指すのとは別な形に向かったわけですね。朗読と聞き取り、こういう特殊な創作を多数経験することによって、綾辻さんは人物の記号化表現というものを徐々に探り当てていったわけです。そして叙述のトリックが持つ無限の可能性、つまりは口述の無限の隠蔽性といったものに気づいていくわけです。こうした作風の先端と完成されてきた文体というものが期せずして文化風土の違う日本にもヴァン・ダイン流の本格ミステリーの導入を可能にしていくわけですね。これはいってみれば頭脳に思索の方が文章よりも上位にある宣言ともいえます。文章というものは所詮は脳が考えていることのごく一部分を表現できる不完全な手段に過ぎない、つまり隠蔽の隙間だらけである。これが叙述のトリックの構造説明かもしれません。こういうことができるのは、頭脳が先鋭化していて文章表現の力に関してはまだ十分のものがない、こういう学生時代の一時期であるかもしれないわけです。ヴァン・ダイン主義という者は日本においてはこういう独特のゴール地点にたどり着いたわけですね。ポーの流儀とはまったく違うものですから。しかし皆さんの中にはね、頭脳にいささかの自信がおありの方がいたら、こういう仕事にも是非挑戦を試みていただきたいものと思います。

これで終わります。ありがとうございました。

 

  1. 島田荘司講演会『本格ミステリーの定義と迷走について』@台湾・金車文藝中心 (1)
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