島田荘司講演会『本格ミステリーの定義と迷走について』@台湾・金車文藝中心 (3)

SONY NEX-7 +  CONTAX Vario-Sonnar T* 35-70mm F3.4
SONY NEX-7 + CONTAX Vario-Sonnar T* 35-70mm F3.4

前回の続きです。

ヴァン・ダインというアメリカの本格系の作家は日本の江戸川乱歩、甲賀三郎といった世代といった作家たちとほぼ同時期に登場した同時代の作家です。横溝正史と木々高太郎といった二人がまたほぼ同世代の作家なんですが、彼ら二人は乱歩さんたちからほぼ十年遅れてともに1935年に活動を開始します。

ポーのモルグ街から先に述べたような重大な要素が見落とされてきたといいましたけれども、これはモルグ街に感動して創作を開始した後の本格系の作家たちが、モルグ街から私の発想とはまったく別の外観的な要素を抽出したからですね。それが名探偵の存在――外部から事件現場に踏み込んでくるという定型の形、密室――この内部に犠牲者が血まみれになって倒れている、といったことになります。また謎解きに必要な推理の材料は物語の早い段階で読者に丁寧に開示されるといった条件になります。こうした要素を抽出し、遵守して創作を深めていったわけです。

ヴァン・ダインでは有名な二十則では述べていませんけれども、これに加えてさらに怪しげな館とか、もしくはそれに準ずるような閉鎖的限定的な空間を舞台として設定して、事件はこの内部で終始することが良いというふうにいいます。そしてこれらの人物たちに捜査の途中で恋愛沙汰は起こさせるなとか、中国人は魔法を使いそうだから入れるなといった変なことをいいますが、これがもっとも面白い探偵小説の形なのだと断定します。そして自身はこれを守って傑作の長編を書いてみせます。これは要するに殺人犯罪とその解体のゲーム化と受け取ることができます。犯人を推理して特定するためのゲームとしての読書なのですから、多くの人にとってこれ以上に興味を惹きそうな恋愛系の事件とかお色気サーヴィスとか降霊術とか黒魔術、このような類いのものは純粋思考を乱すので書かないで欲しいといったわけです。さらに読書の中だるみを防ぐために中盤でもう一つ殺人が起こってくれるとこれを防ぐ効果がある、そういう補足発言もします。このような構成がもっとも面白い推理読書になると、彼は数千冊という類似本の読書体験から結論したわけです。

以降、英米ではこの提案を受け入れて、傑作が書かれるようになります。今日の日本でいうところの本格とは要するにこれのことですね。ポーが発生させて80年が経過した時点でヴァン・ダインが大きく修正整備した彼一流のゲーム化の創作型のことなんです。ポーがジャンルの創始者ということは認めても、決してここにはポーの流儀は入っていません。かたやエラリー・クイーンという人は――自身は否定しているんですが、日本人に史上最高の作として評判が高い『Yの悲劇』なんかはこの提案を受け入れて書かれているように見えます。日本で史上最高の作として語られている横溝正史の『獄門島』なども広い意味でこのルールを受け入れて書いているように見えます。しかし最新科学というポーやドイルの時点では最重要視されてこの文芸ジャンルを発生させた功労者的なファクターがこの提案からは見事に抜け落ちています。それはちょうどアルファベッドから、日本のカタカナから、ヒエログリフや象形文字の持つ絵画的な魅力が消えていることに似ています。しかしヴァン・ダインによって創作の内部は非常にすっきりと整理されて目指すべき目標や気をつけるべき事柄というものが明瞭になってきます。この変化はたとえていうと表意から表音への文字の変化にも似ているし、小乗から大乗への仏教の変化にも似ています。それから文学的な才能が必要であった創作がいわば民主化されて大衆的な次元に降りてきて、とりたてて文学的な才がなくとも書けるようになったともいえます。

これは格別悪い意味ではなくて、文学以外の別種の才がジャンルに呼び込めるようになったということでもあります。この創作のムーヴメントに大衆が参加しやすくなったということもできます。本格創作はその内部がすっきりと整理整頓されて単純化されました。読者はフーダニット、ハウダニット、時としてホワイダニット、この三種の謎にょって吸引し、牽引する、こういう構造が明瞭になりました。そしてこのジャンルの物語は館や閉鎖空間内というステージの中で謎解きのゲームに徹すること、それを読み手の相互了解としました。

事件に用いられる科学や諮問や血液型といった19世紀事件の達成で十分とされて、野球のルールのように固定化されました。その結果探偵は科学者である必要もなくなりました。こうして本格のミステリ小説は殺人を専門的に扱う刑事事件法廷に似たものになっていきます。この提案は十分に当を得た者で、これによって傑作が現れるようになります。名作に奇作がみるみる文壇を埋めて本格ミステリーの黄金時代が速やかに築かれます。また刑事事件を裁く法廷審議というものは実際にこういうゲーム的な要素があります。ですから作業内容を限定することで表現技術はどんどん磨かれて、本格ミステリーは知的エンターテイメント小説の王座にのぼりつめもします。また材料や技術の制限というものはこの小説の創作をアイススケート競技に近いものにもしました。採点が可能なんですから、ベストテンの選定という遊びも十分な必然性を持ちました。ところが悲劇もまた訪れたわけです。創作をめざましい方向に通過して傑作の排出は続きました。

黄金時代も速やかに築かれましたが、それは同時に使用材料の制限でもあったわけです。こういう事情によって後続の作家たちは黄金時代の先人たちの達成を乗り越えにくくなっていきます。材料の数の種類が限られているならば、先にそれを用いられた人の方が良い仕事のできるのは当然です。また科学の興隆や神秘現象への感性というものを排除したためミステリーというジャンルの名称が有名無実にもなりました。ミステリーをうたいながら背後にミステリーが存在しない、実利的な弁論ゲームのような方向に向かったわけですね。屍体が現れるのは当然判っているわけですし、密室が現れるかもしれないと思うし、どっかに犯人がいるということも判っているわけです。これではミステリーを感じないという考え方は当然ありえますね。パターンによりかかるような表現とか台詞が現れやすい傾向も生じて文学者たちからは違和感をもって迎えられるようにもなります。これにくわえてちょうどハリウッドも力をつけ台頭してきて、エンターテイメントの王座につきます。そして本格ミステリー系の読書を圧迫したわけですね。それで欧米のミステリーは黄金時代の翌日から衰退の歴史を刻むということになっていったわけです。

では一方の日本の文壇はどうだったかといいますと、物理的にも言語的にも距離があったので、ヴァン・ダインの影響は大きくはありませんでした。当時の日本にあったものはひたすら乱歩さんの大きな影響というものでした。大事なことは乱歩さん登場時点ではまだ科学革命というものが起こっていなかったということです。科学者としての態度が新市民としての態度だという認識もありませんでした。そして乱歩さんはアイディアに窮すると江戸の外連味、エログロナンセンスといったものに題材を求めるようになっていきます。これはまたもっと別の意味で純文学系の作家たちから軽蔑を呼びますね。戦前の読者たちに聞いてみますと、乱歩さんたちの小説は電車の中ではカバーをつけなければ読めなかったというような、そういうものになっていったわけです。そのために探偵文壇の作家たちは大変軽蔑されるようになって恥ずかしい思いをするようになっていきます。

この傾向は戦後になっても続きますが、1950年代に入って近代自然主義文学の影響を強く受けた松本清張さんという作家が登場します。スタート時点での彼は大変貧しくて、しかも七人の病家族があったために本は絶対売れるものにしなければいけなかったわけですね。それで乱歩さんのような探偵小説を自分も書こうというふうに考えたわけです。彼がもしも裕福であったならば、間違いなく自然主義文学と時代劇を書いていたものと思われます。したがって清張流探偵小説には犯罪の発生とその解決というものが描かれながらも、内部にはごく自然に自然主義文学的な手法が滲んだわけです。殺人者の心情とか恐怖で読者の関心を惹きながらも作中に自然に文学的な手応えというものが現れたわけです。自然主義の手法なんですから、伏線張りとか大がかりな物理トリックとか、あいるはヴァン・ダイン風の名探偵とか館とかこういうものは清張さんによって大否定されました。これらはいってみれば自然主義ではなく人工的な要素なんですね。探偵小説というものはしかし清張さんによって大ベストセラー重ねて、しかも文学的な風味があったので、日本の探偵小説はエログロ乱歩趣味を脱して進歩向上を果たしたととらえられるようになります。

以降日本の探偵文壇は軽蔑されるような以前の立場には戻りたくなかったので、今後は全員清張風の文体と作風で描くようにといった有限無限の強制を発動させるようになります。大流行作家としての立場ができた清張さん自身、同様の発言を隠さなくなります。そして乱歩風の作風を持っていた作家たちは結果的に有害分子ということで文壇から追放の憂き目に遭います。良くないことはこのときにヴァン・ダイン風の本格作風の作家もまた一緒くたにされて退場を余儀なくされたことですね。これがいわゆる”清張の呪縛”と呼ばれる現象です。こういうものが日本の推理文壇に成長ブームとともに徐々に発動して、表現を縛していきました。日本では乱歩さんの作風というものが典型的な探偵小説作風であって、本格風の作風でもあると一般から誤解されていたのでこういうことが起こったわけです。

乱歩流儀と本格流儀とはまったく別物だったわけです。もともと甲賀三郎さんによって乱歩作風というものは本格と対立する変格と位置づけられていたわけですから。しかし時間が経ってこういう事実が忘れられていたわけですね。しかしそれではと、本格とは何であるかという議論がここで提案されるかというと、これは明らかに避けられました。なぜかというとこの議論が本格の流儀として清張作品とは別の作品を指摘しかねなかったからです。ようやく立場を獲得した探偵文壇としては現状を維持するために本格の作品とは松本清張のような作品でなければならなかったわけです。したがってこの議論はタブー化されて分別として避けられて時代の埃を被っていきました。つまり日本の探偵小説の誕生が科学革命と無縁になされたこと、このとき乱歩によって活用された猟奇エログロの趣味というものが日本の本格推理を迂回させたことがあります。探偵文題蔑視に作家たちが苦しんでいてこの救済者として現れた清張の作風というものがまたしても本格の本道をさらに大きく迂回させた、こんなことがありました(続く)。

 

  1. 島田荘司講演会『本格ミステリーの定義と迷走について』@台湾・金車文藝中心 (1)
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  3. 島田荘司講演会『本格ミステリーの定義と迷走について』@台湾・金車文藝中心 (3)
  4. 島田荘司講演会『本格ミステリーの定義と迷走について』@台湾・金車文藝中心 (4)