またトンデモないことを……と苦笑してしまう労作にして怪作・傑作の登場であります(爆)。大問題作『時の審廷』が、虚実の交錯によって物語世界を紡いできた作者に対する「横なぐりの痛烈な鞭」との格闘であったとすれば、こちらは本格ミステリの世界で”閉じた”結構であるとはいえ、後半の「一切の無駄遣いは許すまじ」(意味不明。でも読めば判ります)ともいえる真相とその外連には並々ならぬ労苦があったのではと推察いたします。
物語は、先輩刑事が殺人容疑で逮捕されたことを冤罪と確信する菊園検事は、森江春策とともに件の殺人事件の再調査へと乗り出すものの、とある研究機関でヤバめの機械が大暴走。一方、森江と菊園検事が訪れていた館でも奇妙な密室殺人事件が発生し、――という話。
――と、こんなカンジでまとめてみれば、いかにも定番の、むしろ古き良き探偵小説の芳香さえ感じられるわけですが、「世界最大級の放射光研究施設」の「霹靂X」なるマシーンが大暴走することで平行世界が発生し、そこに菊園女史が飲み込まれてテンヤワンヤとなってしまうという無茶ぶりな展開が素晴らしい。本格ミステリとして見れば、その趣向は多重解決にカテゴライズされるかと思うのですが、本作のミソは、多重解決が最終的には一つの解決に至ることでその途中経過がすべて無化されてしまうという定番の構成に、新しい見せ方を提示してみせたことでしょう。その手法に平行世界というSF的趣向を盛り込んでみせたところはスマートながら、本作では異世界の論理に阿ることなく、事件に付与される仕掛けはあくまでオーソドックスに、そしてその推理も古き良き探偵小説しか知らない読者でもシッリカと理解できるよう、明快な解法に勤めているところが芦辺節。
平行世界だの量子力学だの、未来的な要素を敢えて「新しく」見せるのではなく、霹靂Xという名付けによって海野十三やら香山滋を彷彿とさせるレトロ風味溢れる雰囲気で盛り上げているところは作者の真骨頂。芦辺氏の得意技といえば、探偵行為の敗北によって菊園女史が彷徨うことになる”平行”世界と読者が”現実”世界と認識している場所との微妙な差異を読者に明快に明かしてみせることで、それを巧妙な誤導としている手練が素晴らしい。
一つ一つの平行世界で繰り出される菊園女史の推理は、それぞれ密室ものでは定番のトリックでもあり、それ「自体」に新味はないわけですが、平行世界に分岐した現実世界が一つに収斂することで、そうして捨てられた推理のすべてが太い一束の光となって完璧な真相を照らし出す演出が本作最大の見所でしょう。そしてその光の中に立ち現れる真相は、ただ単面の像ではなく、平行世界において捨てられた筈の過程・仮定をいくつも重ねあわせるからこそ見えてくる重層的なものであり、――とここまで書いていて、巽氏が『論理の蜘蛛の巣の中で』において、東野圭吾の『白夜行』について述べている解説のことをフと思い出しました。ちょっとだけ引用すると、――
ところで、推理小説が二度の語りを備えているということは、順にページを繰って読み進む読者にとって、小説が二重の印象を与えることを意味している。たとえば奇怪な密室の謎が解かれたとき、その謎は読者の記憶から消えて無くなるだろうか。むろんそんなことはない。推理小説を読み終えた者にとって、謎あるいは事件の経過は、常に解決と共存し、二重写しの像となってその作品の印象を形作るのではないだろうか。……(『論理の蜘蛛の巣の中で』35p)
ここで巽氏はもっぱら『白夜行』における登場人物の印象を中心に語っているのですが、「事件の経過は、常に解決と共存」するという本格ミステリの持つ語りの構造は、”謎・事件の経過”と”解決・真相”という相対する二つをシンプルに重ねてみせることで、この二重写しの像に奥行きと陰影を生み出すものの、しかし現代本格がその技巧を突き詰め、解決・真相を多重化させるいくと、像の陰影はさらに複雑化できる一方、かえって全体の印象がボンヤリとしてしまうことも否めない。――そんななか、多重解決の趣向が真相へといたる過程に見せ場の重きが置かれているとはいえ、そうした多重解決が描き出す多層構造の見え方を極北まで突き詰めて、真相を整然と描き出してみせたのが本作といえるカモしれません。
それともうひとつ、ミステリとSFっぽい要素の調律という点では本作、個人的には『ステームオペラ』と表裏一体をなす作品という印象を持ちました。どうにもアマゾンのレビューを眺めると散々な言われような『スチームオペラ』ですが(苦笑)、個人的にはあの作品、御大の某作や、乾氏の某作と並ぶ21世紀本格の技巧に近接した傑作と感じていて、芦辺氏の代表作だと確信しているのですが、表層に見えるSF・ファンタジー要素が向こうの人からは否定的な印象を持たれ、ミステリ側からすれば卓袱台返しの真相がかなりアレと曲解されてしまったように思える『スチームオペラ』に比較すると、こちらは本格ミステリファンではまず食わず嫌いはあり得ないという密室もので、おトイレ臭いトリックも盛り込んであるとはいえ、それらが最後の最期には美しい二重写しならぬ多重写しの像を見せてくれるという外連味タップリの逸品でありますから、本格ミステリファンであればまずは安心して手に取って愉しめるに違いありません。これはもうオススメ、でしょう。