共犯 / 烏奴奴, 夏佩爾

共犯 / 烏奴奴, 夏佩爾昨年の秋、日本でも公開された台湾のミステリー映画『共犯』のノベライズ。九月に島田荘司推理小説賞のイベントで作者の烏奴奴女史からいただいた一冊なのですが、「映画とは結末がちょっと結末が違うよ」と聞いていたこともあって、なかなか愉しめました。

とはいえ、物語はほぼ映画の内容を踏襲しています。映画ではpipiちゃんこと姚愛寗(ヤオ・アイニン)嬢が演じる夏薇喬の死体を見つけた三人の男子が、彼女の死の真相を突き止めようと「共犯」関係を結び、――という端緒から、夏薇喬の部屋に忍び込み、そこから彼女の”死に際の伝言”とでもいうべきノートの切れ端を発見するいたり、三人は亡くなった彼女に代わってある復讐計画を立てるのだが……。

映画と異なるのは、冒頭から、最初に死体を発見した黃立淮の心理がかなり繊細に描写されていることで、この映画とは異なる趣向は、隠された「共犯」関係の真相をより鮮明に描き出すための効果をあげています。本作ではタイトルにもある「共犯」が変奏されていくところがキモで、夏薇喬の死によって結託した三人の「共犯」関係に始まり、中盤、黃立淮の不慮の死によって物語が変転したあと、彼の妹との「共犯」関係に巻き込まれる優等生の林永群の惑乱など、それぞれの「共犯」関係によって描き出される登場人物たちの心理描写が秀逸です。

ミステリー的な仕掛けでいえば、(一応文字反転)やはり上にも述べた最大の「共犯」関係が、現代本格の「操り」へと昇華されているところに注目で、この「共犯」関係にある二人がいずれも亡くなってい、読者の視線から完全に隠されているところが素晴らしい。映画では、後半、不良の葉一凱が探偵役となって、これらの「操り」を看破し、”夏薇喬の死後に作り出された事件”の真相に行き着くのですが、――葉一凱と林永群の二人が自分たちは「共犯」ではなく、作中ではその対語となる「親友」であることを確認するシーンを最後に持ってきた映画とは異なり、本作ではその隠された交換日記の内容を明らかにすることで、最大の「共犯」関係にあった二人の隠微な関係を仄めかすという構成になっており、やや明快に傾いたメッセージを読者に示していた映画とはやや異なり、小説版である本作はその点、かなりミステリー色を強くしているナ、という印象を持ちました。 

また、映画では明確に示されていた夏薇喬の死の真相について、本作ではやや曖昧に描かれているところも大きな違いといえるでしょう。自死かと思われていた彼女の「死」が大きな反転を見せ、それによって隠微な「共犯」関係によって成立した犯罪の虚無性を際だたせていた映画の終わり方は儚くも美しいものでしたが、ミステリーとして敢えて真相を詳らかにしない本作の幕引きはこれはこれでアリでしょう。

その他の違いとしては、映画では死者の生前を描いてたシーンが本作では皆無と言うことでしょうか。すなわち、pipiちゃんの出番がほとんど無いという……(爆)。この副作用として、夏薇喬と母親との関係に焦点を当てられることはないのですが、その一方、黃立淮のことは、妹の視点からもかなり詳しく描かれています。この比重の違いについては、上にも述べたような隠された「共犯」関係こそが、本作の本格ミステリーとしての大きな仕掛けの一つだと考えれば納得です。

もう一つ、映画ではネット社会におけるコミュニケーションの暴走がもう一つの主題として描かれていましたが、本作では最後に「隠された共犯」関係を明らかにした交換日記と、フェイスブックという、大きく異なるコミュニケーションのツールを重ね合わせた趣向が素晴らしい。「SNS」による匿名と実名が入り交じった情報共有が暴走を引き起こし、「交換日記」という、一対一のツールが背後で隠微に「共犯」関係を醸成していったという差異は、本作の「共犯」と「親友」という対語の対比とも連関して、青春物語ならではの酷薄さを描き出しています。

映画を見ていればより愉しめる、見ていなければ現代本格の趣向を活かした本格ミステリーとして愉しめるという一冊といえるのではないでしょうか。日本ではチと手に入れるのは難しいカモしれませんが(爆)、オススメです。

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