第四回島田荘司推理小説賞レポート@台湾(7)

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ちょっと間が開いてしまいましたが、『推理大師 島田荘司訪台講座』をテープ起こししたものの続きになります。

Q3. 先生の作品のほとんどは謎が物語を推進していくような構造になっていると聞いています。つまりまず先に謎があって、その廻りを様々な逸話が取り囲んでいるような構造ですね。そこで先生に是非ともうかがいたいのですが、このような謎に物語という血肉を施す小説の構造は、どのようにしてできあがったのでしょうか? できれば作品の例を挙げていただいて、物語がまったくないところから生み出されるその過程を説明していただけないでしょうか? ほかにも先生の物語に登場する登場人物は大変素晴らしいですよね。特に御手洗潔と吉敷竹史なんですが――そこで先生にうかがいたいのは、こうした登場人物をつくりだす上で何か注意すべき点などはありますでしょうか? 作品の創作を行う人たちの参考になるよう、(御手洗や吉敷のように)ファンが生まれるような登場人物の造詣は、どのようにすれば生み出すことができるのか教えてください(ミステリー作家・寵物先生からの質問)。

そうですね。本格のミステリーというのは、「謎―解決」という背骨を持っています。これは必ず持っています。謎があって、これを必ず常識的な理屈に解体する、解決というプロセスが最後には来るわけです。解決のない謎だけの本格ミステリーはありえないです。これは世界中にただのひとつもないのです。

しかし謎だけの、最後に謎を呼んで――つまり謎だけで物語が閉じてしまう「ミステリー」というものもありえるんです。例えばレイ・ブラッドベリというアメリカの作家の傑作である『十月はたそがれの国』という作品集があります。これは私も大変好きな作品なんですが、解決編はないです。不思議な現象が起こって、不思議な事件が起こっても、解決はないんです。非常に詩的な表現によって物語が生み出されて、閉じてしまうというところがあります。

私は昔こんなことを言いましたが――「魅力的な謎」というお頭があり、「解決」という尻尾がある。その間の時間経過を繋いでいる背骨がある。つまり魚の骨に似ているなと思うことがありました。解決を導くための様々な推理の理屈というものが途中に現れてきます。それは背骨から張り出した小骨ではないかと思うようになりました。この小骨の数が一定量以上に多い作品、これは人によって違います。十本なきゃいけない、あるいは五十本なければならないという違いはあるでしょう。この小骨が一定量以上に多い作品、これを本格と呼ぶと説明していたことがあります。

で、この背骨に魚肉というものをまとわりつかせることになります。しかしこの骨はあくまで魚の骨なんですから、魚肉を出鱈目につけてもいい、クラゲのようにつけてもいいということはないです。魚のシルエットを壊さない範囲で、魚肉をまとわりつかせなければなりませんね。この魚肉の質は恋愛小説であっても、歴史小説であっても、SF的な趣味の小説であっても、犯罪小説、なんでもいいと思うんですね。どのような肉をまとわりつかせてもいいと思います。しかし全体としては魚のシルエットをしていなければならないというわけですね。そしてレントゲン写真で見れば、ここにお頭の尻尾を、それを繋ぐ背骨があり、そこにはたくさんの小骨が出ている、こういう構造で埋まっているわけです。この考え方を忘れずにいれば、本格ミステリーの基本形を崩すことはないと考えています。

それからこれは関係がありますから、二番目の質問に続きますが、御手洗や吉敷というキャラクターということがありますですね。あるいはどのようなキャラクター、変わったキャラクター、魅力的なキャラクターができるようになるか。

これは漫画家が初対面の人と会ったあと、家に帰って、似顔絵を描く。そして一目見ただけであるいは十分あっただけで得意な似顔絵を描けるようになるにはどうしたらいいだろう、あるいは漫画の中にたくさんの変わったキャラクター、魅力的なキャラクターを絵にして書き分けるにはどうしたいいだろう、どうやったら、そうしたたくさんのキャラクターを登場させることができるだろうという質問を連想します。

このときのこの画家たちに対する答えって言うのは、恐らくひとつでしょうね。つまりよく観察すること。色んな人たちに会って、その人たちの仕草や顔の作りや、顔のパーツのつくりをよく観察すること。それを頭の中で解体し、また再構成できるような能力を養うこと、そういったことに尽きるんじゃないでしょうか。

このときに言えることは、大嫌いなキャラクター、すごく性格の悪い人からも逃げちゃいけないと言うことですね。好意的に見なくても良いんですが、そういう人こそよく観察する、そしてその人に嫌な目に遭わされたとしたら、その行動、痛み、そういったものこそよく覚えておく必要があると思います。

酷い目に遭わされた人とか、辛い目に遭ったって言うことは、小説家にとっては財産ですね。そのことを細かく書いていくと言うことだけで、多くの読者の吸引力のある小説を書くことが出来ますね。まあ、それは例えば女性世界にとってもそうだし、とっても嫌な人、まあ女性の女性らしい、行動原理ですね。ある意味、失礼なんだけれども、勝ち負け損得、そういうものをまったく先鋭的に持っている女性がいます。そういう人を描くことって言うのはね、多くの読者に嫌悪感を与えるように見えて、実は女性読者を増やすんです。

私は初期の頃は、すごく嫌な女性――私はそれほど嫌じゃなかったんですけれども――多くの人が――おじさんたち、お兄さんたちが嫌だと思われる女性を好んで書いたりしたことがありました。その時は、綾辻さんなんかはわざわざ電話をしてきてくれて「島田さんの女性のキャラクターはひどいよ」というふうに文句を言われていた時期がありました。彼はそのときラベリング理論というのをやっていて、これはラベリング理論によるとなんとかってまあ……細かいことは忘れましたが、本人がそのような人を求めるからそのような人が廻りに集まってしまうんだ、それは島田さんの責任だ、みたいなね、よくそんなことを言って私を責めてくれました(笑)。

しかし今思い返してみれば、あれによって多くの女性読者を失ったということはないんですね。むしろそれによって女性読者が増えたって言うことがありました。むしろ出かけていくとき三つ指を突いて行ってらっしゃいませといい、外で大げんかをして帰ってきても、暖かく包んで膝枕をしてくれて耳掃除をしてくれるような女性、そんな女性ばかりを書いたりしていたら女性読者はいなくなったと思います。でも、もちろんそういう女性も好きなんですけれどもね(続く)。

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