『推理大師 島田荘司訪台講座』をテープ起こししたものの続きです。
Q4. 島田先生は、本格ミステリーのロジックや謎解きに文学的な価値があると考えていますか? 一般的に文芸評論家というものは、社会批判や、世相の反映、さらには人間心理をつきつめて考えることに文学的な価値があると考えているように思います。もしそうしたものが本格ミステリーの必要条件でないとすれば、私たちはどのようにして本格ミステリーに文学的な価値を持たせることができるのでしょうか?(本格ミステリー作家・林斯諺)
この質問は大変面白いんですね。そして私も三十年くらい作家をやっていますが、繰り返し繰り返し聞かれるまでもなくテーマに上がってくる、あるいは言外にこの考え方の影響を感じる、そういうことの連続だったんです。台湾にはじめてやってきたときに五分間の台湾の読書の番組があったんですね。それに出演したときに「純文学、あるいは文芸小説よりも一段低いと見なされる探偵小説に、なぜあれほど情熱的にあなたは取り組んだのか」と言われたことがありました。これは人が多く陥りがちなトリック、あるいは罠といったものに大勢がとまってしまっているということがあると思います。今からちょっとその説明ができればと思うんですけれど。
例えばアメリカであるいはイギリスで本格ミステリーの文学というものが滅んでしまった、と言いますか――そういうことは事実でしょうけれども、アメリカのテレビ映画では凄い傑作がたくさんあります。例えば『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』とか。それから『名探偵モンク』、『ロー&オーダー』、『メンタリスト』。そういったものは非常によくできていますね。『エレメンタリー』はニューヨークが舞台です。それで『メンタリスト』はサクラメントが舞台。『モンク』はサンフランシスコが舞台です。特にニューヨークのものは、多くがドラッグ問題、それからドラッグのシンジケート、暴力団のシンジケート、そういう都市の持つ悩みというものを非常に直接的に反映した物語です。ですから乱暴な言い方をするならば、社会の改善、あるいは社会の問題点を反映しているものが文学というのであれば、これらはミステリーにしか反映されていないという言い方さえできるんです
そして多く文学と認識されているもの、これは私小説に寄ったものが多い。私小説こそが文学だ、という考え方も否定しがたいものとしてあります。それは個人的な世界です。それから多くの文芸も、恋愛小説も個人的な世界であることが多いです。これらには社会の多くの問題点や改善提案が含まれたものがほとんどありません。
しかしもちろんコンピューターやラインとかVチャットとか、ツイッターとかそういったものは登場してくるでしょう。まあ、しかしそれはミステリーにも登場しますね。ですから社会の提案、社会との関わり方、改善提案、そういったものを考えるならば、ミステリーと純文学っていうのはむしろ逆転しているように思うんですね。にもかかわらずこういうことが繰り返し繰り返し言われるのは何故かと言うことを、よく考えてみる必要があるかもしれません。
私は中国にあまり行くことはないのですけれでも、中国人との付き合いがあります。このときに――これは私の個人的な経験の範囲です。ですからこの経験を覆すような経験をこれからするかもしれませんが――純文学、文学よりも探偵小説が一段低いものである。もしくは「ミステリー文学」――そういう言葉が使えない。そういったような考え方は中国にはないんです。
ではアメリカはどうか。アメリカにもないんです。「ミステリー文学」という言葉は簡単に使われます。しかし日本ではミステリーといったら文学という言葉をつけちゃいけないんですね。この問題はもっともっと調査をする必要があるかもしれませんが、ではこの考え方は日本にしかないんです。そして日本の影響を強く受けている台湾にしかないんですね。これは日台にしかないんですね。この問題は重要なので、さっきのミステリー史に戻ってもうちょっと説明をしてみます。
科学革命によって探偵小説が生まれ落ちたと言うことを言いました。同時に文学もこの科学革命によって生まれ落ちているんです。それはモーパッサン、ゾラによって始められた自然主義文芸というムーヴメントなんですね。このムーヴメントの根底にも科学革命というものがあるんです。それはダーウィンの進化論なんですね。ダーウィンの進化論によって、人間という動物もまた進化という法則の下では囚人も同様である。つまりそういう考え方の範疇にあるのが――というか、考え方が――それまでの英雄感ですね、あるいは神的な物語、ありえないような神的な物語を否定する方向に向かわせたという、そういうふうに考えることができますね。
つまり自然主義文芸というもの……これはまあ、日本に輸入されて、そう……日本人はまことに軽薄なことに、自然主義文芸――田山花袋の「蒲団」を原点にして発展していく文芸のムーヴメントがありますが、あれが輸入品であるということをうっかり忘れているということがあるんですね。しかし実はこれ、輸入品なんです。この原点にダーウィンの進化論があるということです。これは忘れちゃいけないんですね。つまり自然主義文芸、近代自然主義文学と探偵小説とは、実は科学革命の洗礼によって生まれ落ちた一卵性双生児のごとき兄弟である、という言い方さえできます。
しかしなぜ自然主義文芸の方が一段上で、探偵小説は一ランク下というふうに考えられるようになったか。それは日本独特の探偵小説の歴史というものが関わっているわけです。探偵小説もまた自然主義文芸と同じく輸入品なんですけど、これが発生した時、ポーやシャーロックホームズのドイルやソーンダイク、これらはみんな科学者ですね。こういった人たちの面白い物語はもう、速やかに日本に輸入されるわけです。それはもうジェット機で輸入されたように非常に速やかに日本に上陸します。しかし科学革命の方は日本に到着しなかったわけです。これはさながら手こぎボートに乗っかってやってくるぐらい足が遅かったわけですね。そこで探偵小説日本に根付かせようとした江戸川乱歩さんは困ったわけです。だって科学革命が存在していなければ、そもそも科学ってなんだという状況ですし、それから陪審員制の裁判制度も日本にはありませんでした。
陪審制裁判があるアングロサクソン世界では殺人事件や刑事事件に関わり言及をすること、これは市民としてのたしなみだったわけです。しかし日本にはおいては、刑事や警察官、捜査官の特権的な事項であり、素人の一般市民がそういった問題に言及することは不謹慎なことであったわけですね。そこで乱歩さんはこの小説を定着するときに、江戸時代の見世物小屋の趣味というものを活用するわけです。
それはホームズ譚やポーの小説の中に異形の者ですね、奇形児や幽霊やそういうものへの恐怖というものがやはりテーマとしてあった。だからこれを増幅してこの部分を強調して、探偵小説を日本に根付かせよう。そのためには日本の見世物小屋の伝統があるじゃないかと彼は考えたわけです。見世物小屋はろくろ首や一寸法師や奇形児などを見せてお金を取るというところでしたが、この中に裸の女性への興味ということもあったんですね。これが次第にやはり裸の女性、エロティックな事件、そういう扇情的な言葉への興味が暴走するようになっていった。読者の方もそういう方向の本を多く買われるという現象が起こってきたわけです。
そのために乱歩さんの小説というのは、電車の中ではカバーをかけないと読めないというような、恥ずかしいものになってしまった。この有り様というものが純文学畑、あるいは文芸方向から激しい軽蔑の視線を浴びるということが日本では起こったんですね。このとき日本に探偵小説が、純文学や文芸畑から一ランク低いもの、低級なものという常識が生まれてしまったわけです。で、原点のこういう理由は失われたんだが、その常識だけが引きずられて今に続いてきた、ということだと思う。それで説明ができると思うんですね。まあ、この問題は別の質問でも述べられるかもしれないので先に(続く)。
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無名之女 / 林斯諺