前回のエントリである「成城学園創立100周年・成城大学文芸学部創設60周年記念講座「成城と本格推理小説」第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その2」の続きです。
島田: そしてその工房に行列をした才能のうちでもっとも重要な人物がいます。それはポーから大西洋を隔ててイギリスに現れたコナン・ドイルというひとですね。この人がつくり出したシャーロック・ホームズという、人物は何をしたかというと、ロンドン中の土の色や外観、性質、粘っているとかさらさらに近い、砂に近いとかそういう性格を観察、分析し、記憶します。あるいはロンドン周辺の土の外観を分析します。そうして犯罪現場に踏み込んできた人たちが、ロンドンのどのような方向からここに来訪したかを洞察します。あるいはロンドンで手に入るあらゆる……いや、すべてのタバコの灰を観察します。この灰が白いか、灰色か黒いか、ふわふわの綿のようなものか。粉っぽいものか、そういうものを解析し、記憶し、現場周辺で吸われていたタバコを見て、このタバコがどのような価格帯のタバコで、ひいてはそれを吸っていた人が社会のどの階に属している人であるか、こういう洞察をつけようと考えます。
そしてこれらは先ほど申し上げた、科学を用いた論理的な推理というものの有効な材料となり得る。そういう洞察からこういうことを行ったわけですね。あるいは数リットルの液体に一滴の血が混入しても、それを見逃さずに検出していく試薬を発見しようとしていく。ベーカー街の自宅で実験を繰り返したりする。こういうありようというのは、探偵というよりも、実は科学のジャンルに推理論理学とでもいうような新しい学問を発生させ、定着させようとしている、焦燥の科学者の奮闘する姿なんですね。
シャーロック・ホームズは探偵というふうな評価が世の中に現れてきますが、それはコナン・ドイルの意識からすれば少し遅れたものであって……時間的には遅れたものであって、ドイルの意識としては、科学者――新しい科学者ですね――を創造しようとしていたわけです。ここで見逃してはいけないことがひとつあります。つまり探偵小説という新しい文芸には最新科学への信奉心ですね、これを信頼する心、重要と考える心というものが非常に大事な軸として存在していたということです。
で、こういう探偵小説は日本にも飛び火をします。これは日本に飛び火をし、定着させようと奮闘した日本の作家は江戸川乱歩という人ですね。しかしここに日本の圧倒的な不幸がありまして、日本には科学革命が起こってはいなかったわけです。したがって新市民に対する期待のイメージというものもありませんでしたし、それから科学捜査を標榜し、拷問をしないんだ、と宣言する民主警察もまだありませんでした。したがって、拷問の有無を観察する陪審制さえも存在していない。だから厳しく言えば、日本ではまだ探偵小説がスタートできる状況にはなかったわけです。
しかし乱歩さんはこれを無理矢理スタートさせ、まあ、成功裏に進みます。しかしそれがないのですから、乱歩さんは別の要素を引っ張ってきた。それが江戸の見世物小屋とかお化け屋敷といった趣味であったわけですね。一寸法師とか裸女とかろくろっ首とか、病変死体、江戸の見世物小屋はやがて大正昭和初期まで続いた衛生博覧会というものに結びついていくわけですが、これはもちろん衛生観念の啓蒙という理屈をもってはいましたが、実際は怖い物みたさの、そういう江戸見世物小屋的趣味で大衆は足を運んでいったわけですね。ここには病変死体とか、やはり雑菌細菌によって大きく変形した死体、なんて恐ろしいものがあったわけですね。
で、こういった趣味というものは確かにドイルやポーの世界にも垣間見えるものです。しかしこれらはポーやドイルは乗り越えるべき前近代、全盛期の遺物として出してきた可能性がある。しかし乱歩さんはそれそのものを主軸においてしまうということがありました。ですから西欧に対する誤解であるという言い方もできるかもしれません、ですね。しかし乱歩さんが行ったこの選択と、乱歩さん趣味、江戸趣味の探偵小説というものは大変に受けて、どんどん際限なく加速をしていきます。
それで少し遅れて現れた甲賀三郎という人がこれに不安感、危惧感を抱くわけですね。そこで乱歩さん的な江戸見世物小屋流をいわゆる変格探偵小説と呼び、英米風の理知的な探偵小説を本格の探偵小説と呼ぼうという、こういう分類の用語を提案をし、そして交通整理を目論むわけです。日本でだけ、その変格探偵小説は加速をして、ポー以降の科学的探偵小説が辺境の地、ガラパゴス的探偵小説になっていくことを彼は怖れたわけです。
しかし不幸なことに、甲賀三郎さんはこの本格探偵小説の、本格という言葉を使用上どのようなルールを持つべきであるか、あるいは本格の定義というものを書き残しませんでした。いっさいないわけです。これを書き残せなかった理由というのは、まあ、ちょっとした纏綿した事情がありまして、話すとちょっと長くなりますので、これは省略しますけれど――本格ミステリーワールドというのが出ます。これの巻頭言でちょっとそのあたりを書いていますので、まあ興味のおありの方は読んでいただいてもよいですが――説明がないためにこの本格とは何であるかの議論が都度起こって混乱してしまうわけですね。
しかし彼が言った理知的探偵小説が、たとえばどういうひとの作風であるかはあきらかなんです。というのは、彼が登場した1920年代、もっとも重要な海外の探偵小説作家はヴァン・ダインだったからです。つまり彼はヴァン・ダインのような小説、と漠然とイメージしていた可能性は高いです。このヴァン・ダインの作風がどのようなものかと説明いたしますと、ヴァン・ダインは有名な二十則というものを遺していますが、これだけではちょっと判りませんですね。彼が言っていることや、彼がものにした作品群から類推すると、以下のようなものであると考えられる。
それは舞台を狭くとるということです。閉鎖空間と申し上げてもいい。例えば怪しげなvv館。ヴァン・ダインは書いていませんけど、孤島でもいいかもしれませんですね。これが狭窄物を廃止して、論理的な推理をしやすくする、つまり推理の材料をあまり多くしないで、有効なものだけを現れやすくする、そういう配慮であると考えられます。それからそこに怪しげな人物たちが集合をしており、あるいは彼らのプロファイルは早い段階で読者に開示をされると言うこと。そうしてそこでまもなく殺人事件が起こりますが、この説明はなかなか難しい……つまり解明が難しい、どうして起こったのか、どのようにして行われたのかが難しい。そこで悩んでいると名探偵役の人物が外来してくる、つまり外からやってくる。そして彼はすでに読者も心得ている材料だけを用いて論理的に推理し、最終段階では読者を出し抜くかたちで意外な犯人、予想外の人物を犯人として指摘をする、このような条件を持っている小説である。
これが――彼は2000冊も読書、探偵小説の読書をしたと言われていますが、その経験を通じてこういう種類の条件を持つ探偵小説がもっとも面白い読書を誘導するというふうに彼はある意味独善的に、提案をするわけですね(「成城学園創立100周年・成城大学文芸学部創設60周年記念講座「成城と本格推理小説」第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その4」に続く)。
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その1
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その2
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その3
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その4
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その5
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その6
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その7
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その8
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その9
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その10
- 第一回『ポーの伝統―最新科学と本格推理』@成城大学 その11